一生一石

愛犬とイシコロのお話

刻々満開 蘭友の寒蘭・寒葵ハウス

余白の人生

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 刻々満開 蘭友の寒蘭・寒葵ハウス



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 20171117 蘭友・坂口亮二氏の蘭小屋鑑賞・撮影



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亮二氏は寒蘭よりカンアオイを採集・蒐集されている。


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毎日のように山野を踏破して珍しい蘭系統の山野草を採集している。
これまで、大野原のヒメユリや珍種のカンアオイなど頂いた。


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寒蘭は、近隣の深山から九州の山々を捜して分け入り、自分で採集される。
発見した坪(方寸の狭い生息地)の生まれたての二葉を持ち帰る。


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花を咲かせるまで、最低7年はかかる気の長い根気のいる噺である。


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「意地悪な猿もいなし、思う存分おいしい柿が喰えるぞ~。ありがとう、イシコロ爺さん」



花が咲き結実した実生の種を育て、苗を元の自然・坪に戻している。
乱獲や環境汚染で絶滅危惧種が増える中で、自然を復元する美談である。


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自分を含めた文明人の生き方が恥ずかしくなってしまう。
土葬が許されずに、火葬場で焼却して灰燼に帰すニンゲンにどんな恩返しができるだろう。

寒蘭は売買などせずに、知人に差し上げたり交換するだけだ。
イシコロには、決して真似のできない高雅なご趣味で感動する。


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この齢では、自然と共に暮らし悠々自適の人生をたのしむ才能の持ち主に出逢う。




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中国大陸の木化石・大化石

yyyk 硅化木5 China


  

 中国大陸の木化石・大化石



yyyk 硅化木5 China sui CA00001558【高原红】红色木化石石炭纪缅甸树化玉


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yyyk 硅化木5 China4 【满江红】喷砂缅甸木化石


yyyk 硅化木5 China sui CA00000405极品木化石,通体晶莹


yyyk 硅化木5 China sui 【满江红】喷砂缅甸木化石


yyyk 硅化木5 China sui 硅化木木化石奇2


yyyk 硅化木5 China sui CA00001563【漫山红叶】喷砂缅甸木化石


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珪化木・硅化木(けいかぼく)木化石・大化石

余白の人生

yyyk 硅化木 イシコロ収蔵品 龍門峡渓流にて自採集石 (2)





 珪化木・硅化木(けいかぼく)

 木化石・大化石(中国では)




yyyk 硅化木 イシコロ収蔵品 h21 w20.5 cm 瑪瑙化した (2)



 20171117 珪化木・硅化木を採石蒐集した頃



yyyk 硅化木 イシコロ収蔵品 龍門峡渓流にて自採集石2 (2)



先日、寒蘭鑑賞に出かけたとき、入口に大きな木化石・大化石が陳列してあった。


yyyk 硅化木 美多香園入口の珪化木4柱(寒蘭専門店・川棚町)20171109 (2)


大学在任中長与町住民のとき、水石採集に嵌っていた頃を思い出してなつかしかった。


yyyk 硅化木 イシコロ収蔵品 龍門峡渓流にて自採集石1 (2)



 珪化木・硅化木



植物の化石の一形態。瑪瑙化、オパール化した貴石。

中国では木化石・大化石と呼ばれるが、古代に何らかの原因で土砂等に埋もれた樹木が、膨大な年月(2億5000万年前のジュラ紀から)をかけ地層からかかる圧力により木の細胞組織の中にケイ素と酸素、水素との化合物であるケイ酸を含有した地下水が入り込むことによって、樹木が原型を変えずに二酸化ケイ素(シリカ)という物質に変化することで、石英や水晶などと同様に固くなり、化石化したものである。


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保存状態が良いものは年輪や木の形まで保存される。石炭とほぼ同所的に出土することもあるが、珪化木はケイ素分を多く含んでいてかなり硬く、石炭採掘の際には厄介な障害ともなる。一部が石炭、または石炭に近い状態になっているものもあり、いわば「石炭になり損なった木」ともいえる。


yyyk 硅化木5 China1


アフリカ、アルゼンチン、ブラジルなどで多く産出され、観賞用に高値で取引されている。瑪瑙化、オパール化した貴石・宝石はパワーストーンとして、指輪・ペンダント・ブレスレット・数珠などに加工され、製品化されることが多い。


yyyk 硅化木 中村錦硅化木1


yyyk 硅化木 イシコロ収蔵品 龍門峡渓流にて自採集石3 (2)


yyyk 硅化木2


日本でも各地で産出されるが、特に兵庫県東条町(現・加東市)黒谷地区西側などの神戸層群の一帯からはブナ科、メタセコイア属などの珪化木が多く産出されたが、乱獲もあり近年は採取されることが減少している。岩手県一戸町にある根反(ねそり)の大珪化木は国の特別天然記念物に指定されるなど、各地に国や自治体の天然記念物に指定されているものがある。




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キッチュにどっぷり浸かったニンゲン社会

忘れえぬ光景

平戸サムソンホテル 7




 キッチュとは何か?


まず、イシコロのモノローグを最初に述べておく。

私たちの生が一回性であるかぎり、どの年代も初体験、未知との遭遇であり、生きている限り、我々は常に構造的な無知(未知)のなかにいる、といってよい。ミラン・クンデラの作品『無知』は愚かしさを嗤(わら)う罵言ではなく、これまで何度も似たような体験をしてきたのに、また同じことを繰り返している人間世界の危機意識のない「知の限界」の愚かしさと滑稽さを表現したのであろう。

無知の知(クンデラ)、無意識の識(フロイト)、無用の用(老子)にも示されるように、我らはいつも無と存在の領域を振り子のような正確さではなく、理性と感情にまかせてただ取るべき手段もなく往復する原初的生物の、神聖で愚かな行動を『無知』と表現したのであろう。

この中では、人間が主張する生命の重さという単位は存在しない。気体のように、雲のように風に吹かれて飄々とあてもなく漂う羽毛の軽さに似ている。
人間の存在とは何か、という身勝手で人間独自の独善的発想は拒絶される。
無常観、はかなさ、かそけさ、虚無感、無力感という日本人好みの言語表現では説明できない無知の世界である。

膨大な過去の文化的遺産・知識・智慧で対処しようとしてもどうにもならない人類の愚かさと無知を、ミラン・クンデラは『存在の耐えられない軽さ』と命名したのである。



 「存在の耐えられない軽さ」とは

 ニーチェの永劫回帰の思想で、人生は何度も繰り返されるから取るに足らないほど軽いのか、それともたった一度きりしかないからとても重く重要なのか。軽さと重さどちらが肯定的でどちらが否定的なのかというとこから始まる。

存在は絶対的に美しく善であり、世の中は下品な糞など存在しないかのように振る舞う(見て見ぬふりをする)。こんな美的な理想のことをキッチュ(kitsch独:まがいもの、俗悪なもの)と言い、キッチュとキッチュでないもののは隣り合っていて紙一重だ。わかりやすく日本語で言えば、ミーハーのすることではないか、とあざ笑いながら、内心ではミーハーのしていることを妬み羨んでいる。そこを人間は運命に翻弄されるように行ったり来たりするだけで、傍から見ると滑稽に見える。この人生の滑稽さが存在の耐えられない軽さの「軽さ」なのだ。

上手く説明できないけど、何度か本を読んでもらえれば何となく分かると思う。
クンデラは知識が豊富で内容も哲学的・思想的でさることながら、書き方が本当にうまい!
作者自身のエッセー的考察と小説(物語)が絡み合いながら展開していく。エッセー的考察があり、それに基づく小説の登場人物の行動、また逆に登場人物の行動から考察するなどだ。

そういえば当たり前のようにミラン・クンデラと言っているが、ここで簡単に彼について書いておくと、クンデラは1929年チェコ生まれで、今は亡命先のフランスで活動している作家である。代表作はいくつかあるが、『存在の耐えられない軽さ』の作者だと言ったらへぇと思う人もいるだろう(てか、私がそうだった)。

さて、のっけからキッチュキッチュとやや興奮気味の私だが、クンデラがどうしてキッチュを問題としているのかを一言で言うなら、彼はそれを「小説の敵」と捉えているからである。この小説の敵には他に2つあり、1つは「アジェラスト(笑わない者、ユーモアのセンスのない者)」、もう1つは「紋切り型の考えの非-思考」だと言う。加えてこの3つは、同じ根をもつ1つの敵だとも述べている。この文脈におけるキッチュの定義を彼自身の言葉で見てみよう、ということで、この本の作者の赤塚氏は2つの引用文を載せている。

「キッチュという言葉は、どんなことをしてでも、大多数の人びとに気に入ってもらいたいと望む者の態度をあらわしています。気に入ってもらうためには、あらゆる人びとが理解したいと望んでいることを確認し、紋切り型の考えに仕えなければなりません。キッチュとは、紋切り型の考えの愚かしさを美しさと情緒の言葉に翻訳することなのです。キッチュは、私たち自身にたいする感動の涙を、私たちが考えたり感じたりする平凡なことにたいする涙を私たちに流させます。

どうしても気に入られ、そうすることによって大多数の人びとの関心を得なければならないという必要を考えてみれば、マス・メディアの美学はキッチュの美学にならざるをえません。マス・メディアが私たちの生活のすべてを包囲し、そこに浸透するにつれて、キッチュは私たちの美学にそして私たちの日常の道徳になっていきます。最近まで、モダニズムは紋切り型の考えとキッチュにたいする非順応的抵抗を意味していました。今日では、モダニティはマス・メディアの途方もない活力と一体になっていますし、モダンであるということは、時代に乗り遅れないようにするためのすさまじい努力、このうえなく型どおりであるよりもさらに型どおりであろうとするためのすさまじい努力を意味しています。モダニティはキッチュというドレスを身にまとったのです。」



赤塚氏は言う。「問題のキッチュについては、ひとまずここで、クンデラが『どんなことをしてでも、大多数の人びとに気に入ってもらいたいと望む者の態度』とみなしていることを記憶に置くことにしよう」。そしてキッチュについての本題に入る前に、非常に丁寧な説明を加えている。つまり、クンデラ作品を見ていくには、まずこの広大な意味内容を含むキッチュという概念を理解しなければならず、しかもクンデラにおいてはいわゆるキッチュの美的側面ではなく倫理的側面のほうがより重視されているため、彼のキッチュの用語法をも理解しなければならない、というのだ。

赤塚氏は始めにキッチュの一般的な理解を、辞書における定義として表している。つまり「通俗なもの、俗悪なもの」というやつだ。しかしクンデラにおいてはキッチュは「もの」を指すのではなく(前のページでも書いたように)通俗な「こと」という人間の態度をいうのだ。次に赤塚氏はその「キッチュという態度」について述べていく。

「(クンデラのいう)キッチュとは何か」という話をする際に赤塚氏は多くの本を援用しているが、基本的な部分はアブラアム・モル『キッチュの心理学』とマティ・カリネスク『モダンの五つの顔-----モダン・アヴァンギャルド・デカダンス・キッチュ・ポストモダン』に依っているように思われる。赤塚氏は次のようなモルの言葉を引用している。

キッチュとは、まず何より、人が物との間に結ぶ関係のひとつのタイプである。ひとつの具体的な物についてそれをキッチュであると言ったり、あるいは一つの様式をキッチュであると言ったりするよりは、人間の存在の仕方そのものについて、一つの型(タイプ)をキッチュと言った方が適当なのである。

しばらく赤塚氏はモルの本に従って、キッチュと消費社会について話を進めていく。キッチュ(という言葉)が生まれたのは19世紀中頃で、そのとき興隆してきた市民社会において発生したのだとモルは言う。市民社会はその後大衆社会となり消費社会へとつながってゆく。赤塚氏はモルの言葉を次のように要約している。
もし消費社会を、そこに属する同時代の人びとが、消費にともなう「物語」を好んで共有しようとする社会というふうに理解してよいなら、キッチュは何よりもその「物語」に結びついた現象とみなしてよいだろう。

消費にともなう物語、というのは、分りやすく言えばステイタスである。物自体ではなく、その物に附随する何かしらの意味を求める。「俺は金持ってんぞー」と、その物が彼の代弁をするがゆえに、彼はその物を買うのである(なんかいきなり身近な話になってきた)。更に言えば、彼がその物を持っているからといって必ずしも金持ちであるとは限らず、大抵はその逆なのだ(後述するがここにキッチュが「自己欺瞞」と言われる側面がある)。彼同様キッチュにどっぷり浸かっている人間にとって彼は(自分より)金持ちに見えるかもしれないが、キッチュを見抜く人間にしてみれば彼は甚だしく滑稽である。しかしそのような人間は少数だし、言ってしまえばキッチュから逃れられている人間などいないのである。

キッチュには美的側面と倫理的側面があると前述したが、これはもちろんまったく別個な話としてあるわけではない。「芸術とキッチュ」ということでいくつかモルの文章を見てみよう。
独創性と陳腐とを一定の割合において共に内に含んでいるのが芸術であるのに対し、キッチュは、中庸を求めて、独創と陳腐の間を揺れ動く動きとして現れてくる。

名もない人びとの集団によって楽しみが社会的に受け入れられていく、その動きがキッチュである。この社会集団は、穏健でなまぬるい「悪趣味」の持ち主なのだが、「徳は中庸にある」のだ。そしてキッチュとは、まさにその中庸の徳に他ならないのである。キッチュとは、それ故、そのようなあり方、様態 le mode なのであって、流行 la mode なのではない。

芸術家は、大衆の趣味というものを多かれ少なかれ是認し、これに妥協しようとする。鑑賞する方の側でも、のっぴきならない形で芸術作品にのめりこむよりは、充分な余裕をもって楽しもうとする。無趣味の中にひとかけらの趣味が見いだされ、醜悪さの中に一編の芸術が見出されれば、それで充分なのだ。駅の待合い室の電灯の下には、一枝のやどり木が飾られ、通路には、ふち飾りのついた鏡がおかれ、居間のテレビの上には造花が飾られる。そして、道具箱はヴォージュ産の樅材で作られるのだ。こうして、日常生活をいささかでも心地良くしようとするのである。

それは、日常生活の心地良さに適合してしまった芸術だと言ってもいい。革新的であるという、芸術本来の機能は、そこでは犠牲にされているのである。キッチュとは、ひそやかな悪徳である、やさしく甘い悪徳である。だが、悪徳というものを全く持たずに生きていける人間がどこにいようか。キッチュの持つ圧倒的なエネルギーとその普遍性は、そこに起因しているのである。

言わば心地良さに適合してしまった芸術がキッチュであり、心地良いがゆえに人びとはそれを喜んで受け入れ、したがって商品としてあり得るのである。赤塚氏は次のような引用文に続いてこのように言っている。
ピンクやブルーの淡い色調、規則通りの和音、悩みやつれるヒロイン、あるいは父親らしい父親-----人はこういったもの全ての中にある心地良さを感じる。そして、これらの心地良いもの全てに共通する要素が、キッチュの本質なのである。心地良さとは、キッチュの最も重要な情緒である。(モル)

この種のキッチュの例には、さらに、木陰に横たわる恋人たちや、煙突から煙がたなびく小さな家に暮らすしあわせな家族というイメージ、絵はがきを思い起こさせる自然の風景などもふくめることができるだろう。いずれにしても、これらのものにもとめられているのは「心地よさ」にほかならず、しかもそれは、誰もが手にすることができるもの、誰にとっても到達可能のものとみなされている。つまり、それは「約束された心地よさ」なのだ。さしあたってこの「約束された心地よさ」をもとめる態度、それがキッチュという態度であると理解しておくことにしよう。

ここで赤塚氏は、モルの本からキッチュの現象を構成する五つの主要な要素を抜き出している。説明も含めて全文載せたいところだが、それは別の機会にするとして、ここは箇条書きにとどめる。

   1、成功が保証されていること。
   2、自己肯定。
   3、本質的な価値としての所有物。
   4、心地良さ。
   5、生活の中の儀礼性。

それぞれ簡単に説明すると、1の「成功が保証されている」というのは、その物なり行為なりが世間的に既に良い評価を得ているということと言ってもいいのではないかと思う(ちょっと自信なし)。突拍子もないことはしないし言わない。「中庸の徳」というやつである。2の自己肯定というのは、自己の生活や価値観にどっぷり浸かって、それに対して何の疑いも持たないというおめでたい態度のことである。3については、説明文を見る限り先程のステイタスの話らしい。どんな服を着てどんな車に乗り、家はどこでどのくらいの広さがあるのかということが、その持ち主の価値(?)を現すのだというアタマで揃えられる所有物、ということと思われる。4の心地良さは先に見た。

5の生活の中の儀礼性というのは、いわゆるマナーのことである。食事やお茶、接待をする際の行動様式というものは上流階級のものであったのだが、それをブルジョアジー(市民階級)が模倣し、次にプロレタリアート(労働者階級)が身につけたのだという。ははは、これはつまりプロレタリアのくせにやたらブルジョアぶりたがるという上昇志向(?)の話と思われる。

赤塚氏は次に「心地良さ」を求める態度から「現実逃避」ということに話を移し、以下のようなカリネスクの言葉を示す。
キッチュは、(・・・)現代の日常生活の凡庸さと無意味からの脱出の幻想という-----心理的により重要な--- --機能をもっている。どんな形態また組み合わせにおいても、キッチュとは緊張を緩和する快楽である。

これに関する具体的な例を示そうと思っても私もいまいちピンとこない文章ではあるが、その前に「キッチュはロマン主義のひとつの帰結となっている」とあることを考えるに、これは(モルの言う)キッチュ文学の話と通じる部分があるのではないかと思う。キッチュ文学における現実逃避というのは、つまりハーレクイン文庫の世界である。凡庸な毎日が、突然訪れた恋によってドラマチックなものに変わる。それまで生きているのか死んでいるのかさえわからなかったような女が、1人の男によって自分の魅力を知り、生の意味を知る、といった手合いのもの。いや、私は実際読んだことはないのだが、そのモルがキッチュ文学の例として取り上げている文章というのは、そんな感じなのである。かなり笑える。


クンデラの言葉を借りれば「神が宇宙とその価値の秩序を支配し、善と悪を区別し、ひとつひとつの事物にひとつの意味をあたえていた場所」である。しかし近代以降神はいず、「神の唯一の<真理>は、おびただしい数の相対的真理に解体されて、人間たちはそれら相対的真理を分かちあうことになりました」。これはその通りだと思う。それなのにロマン主義やキッチュは、バカバカしいほど善や美のみをひけらかしやがる、というわけだ。更に言えばそれすらただのポーズなのである。

 (Posted by Seigow Matsuoka & 「ミラン・クンデラと小説」 赤塚若樹 水声社 2000) 




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世の中に役に立たないものは無い

余白の人生

0 r 【 李朝 青花草花文面取瓶 】染付 秋草手徳利a-1 h32.5 w15 cm 82man




世の中に役に立たないものは無い



 「老子道徳経」11章 無用の用


三十輻共一轂。當其無、有車之用。
挺埴以爲器。當其無、有器之用。
鑿戸牖以爲室。當其無、有室之用。
故有之以爲利、無之以爲用。

【書き下し文 】

三十輻(ぷく)一轂(こく)を共にす。某の無に当たりて、車の用あり。
埴(しよく)を埏(こ)ね、以て器を為(つく)る。某の無に当たりて器の用あり。
戸牖(こゆう)を鑿(うが)ちて、以て室を為る。某の無に当たりて、室の用あり。
故に有の以て利をなすは、無の以て用をなせばなり。


 【解釈】

車輪は、30本の棒が中心の輪に集まって出来ている。車軸を通すこの輪があいているから車輪は用をなす。

粘土をこねて器をつくる。その器の中になにもない空間があるから器は用をなす。

戸や窓を打ちつけて部屋をつくる。この囲みに空間が広がるから部屋は用をなす。

何かが「ある」ということで利益を得ているということは、「ない」ということが、見えないけれど大きな役に立っているのである。特に逆境に遭遇して、この見えない大きな貢献を感じ尽くすことが大事なのだ。

 ◇ ◇ ◇

世の中には、一見して無用と見えるものがたくさんある。「うどの大木」などというのが、そのよい例だ。しかし、それはしょせん人間が決めたことで、天の目から見ると、無用と思われるものが実は大きな働きをしている。これが「無用の用」である。

老子や孔子を生んだ中国の戦国時代の馬車を見ると、ちょうど自転車のスポークのように、車輪の周囲から中心に向かってたくさんの輻(や)が集まっている。その輻が集まったところに轂(こしき)があり、轂の中心部は空洞になっている。

もし轂の中心がふさがっていたらどうなるか。軸が通せないから車の用はなさないだろう。粘土をこねて器をつくる。これも内部に空間があるから器の用をする。部屋も窓も出入口があるから室の用をなす。役立たずなんていない。

家にしてもそうだ。サラリーマンが、何とかマイホームを手に入れたいと思って一生懸命に働き、金をかけて家を建てる。しかし、よく考えてみると、金をかけて造るのは確かに家だが、人間が実際に利用するのはどこか。建物によって造り出された空間だ。もし建物の内部に空間がなかったら、家を建てる人なんて一人もいないだろう。


0 r 【 李朝 青花 草花文 面取瓶 】 秋草手 染付a h20 w17.5 cm 伊丹潤 36man


無用の用というのは、何も物と空間の関係だけではない。人間の世界も同じだ。

「あの人はのろまだ」とか「役立たず」とかよくいうが、そんなことを誰が決めたのだ。イシコロは二元論思考は好まないが、老子の生きた時代を配慮すれば、美があるから醜があり、善があるから悪がある。難易、長短、高低にしても片一方だけでは存在しない。あれこれ差別をするのは人間社会だけだ。

動物の社会を見ても、のろまな動物、弱い動物がいるから、肉食動物はエサが獲れる。みんな速くて敏捷な動物だったら、虎やライオンはとっくに絶滅している。労働者や消費者がいるから、資本家が生かされている。

天から見れば、この世の中に役に立たないものなど何一つない。植木が好きな人ならご存知だろうが、松が好きだからといって、松の木だけを庭に植えても調和がとれない。なぜかというと、天には松の木だけを育てようという意思がないからだ。

人間には背の高い人もいれば、低い人もいる。太った人もいれば、痩せた人もいる。勉強や仕事ができる人もいれば、苦手な人もいる。かつて旋盤を使わせたら名人といわれた人も、コンピュータ時代になれば役立たずだ。人間の決める評価なんて、そんなものなのだ。そこに気がつき、自然の流れに沿って生きることができれば、その人の人生は最高に幸せだ。


人間の決める評価は、移ろいやすく、時代とともに変化し、確定的なものでない。

これがわかると、そんな評価に一喜一憂せずに、自分らしく、生き生きとした人生を送ることが、幸せな人生の拓き方だとわかるようになる。

大金をかけて建てた家の、大金がかかった壁や屋根や家具ではなく、その壁や屋根にかこまれた、空間こそが人間の住居空間となるのだということがわかれば、無用とおもわれる、その空間の意味が見えてくる。

日常役に立たないと思われている物や人でも、この世の中に存在するものが、すべて意味があり、役に立つとか立たないとか、ちっぽけな判断を人間がすることそのものがまちがっている。

宇宙はすべてのものをこの世に生みだし、それに優劣をつけなかった。そしてすべての存在に意味があり、すべての存在が生かされている。

イシコロ的見解としては、量子力学が進んだ現代では、愚かな地球人だけが、人間存在を特化して、身勝手な価値付け、意味付けをしているだけで、はなはだ迷惑千万なことである。

宇宙そのものは、ただ離合集散・分離統合を無意味に繰り返しているだけのことである。

もちろん、老人のイシコロもその特化した一存在にすぎない。



 

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