一生一石

愛犬とイシコロのお話

禁書や発禁本となる本当の理由

雑学曼陀羅

禁書や発禁本e

『ロリータ』 ウラジミール・ナボコフ著

ロリータ・コンプレックスいわゆるロリコンの語源となったのが、この小説の登場人物「ロリータ」である。 少女に対する性倒錯が問題となったのは言わずもがな。ナボコフは本質を見て欲しいと訴えた。




 禁書や発禁の本当の理由



結論から言えば、いつの時代にも真相を暴露されれば、万事休す。権威失墜、体制・秩序の崩壊に日夜脅えるニンゲンが大勢いるからである。



禁書や発禁本a


禁書や発禁本というのは、なんだかそれだけで心ときめくものであるが、政治的理由によって検閲をうけた本には、その当時の社会や為政者の剥き出しの牙の意味や、その社会の後に引けないソーシャル・ペナルティ・ラインが見えてくる。

マキアヴェリの『君主論』を筆頭に、マルクス・エンゲルス『共産党宣言』、ストウ夫人『アンクル・トムの小屋』、ヒトラー『わが闘争』、パステルナーク『ドクトル・ジバゴ』、ソルジェニーツィン『収容所列島』など、およその予想のつくもののほか、いくつかの注目すべき禁書ががある。


 ドルトン・トランボが少年のフラジャイルな魂と感覚を綴りあげた『ジョニーは戦場へ行った』(1939)は、赤狩りの餌食となって検閲をうけた。トランボが共産主義に加担しているとみなされたせいである。のちに映画にもなったこの作品が、そうした政治思想をはるかに超えた作品であったことを、映画を前にしてさえアメリカ人は長らく受け入れなかった。


 けっして“フロンティア”などではなかったカリフォルニアの苛酷な労農社会を描いたジョン・スタインベックの『怒りの葡萄』(1939)と、一握りの支配者による暗黒の未来社会を描いたジョージ・オーウェルの『1984年』(1949)および『動物農場』(1945)は、教育委員会・学校図書館・公立図書館が読書拒否声明を出した。大学といい、学校図書館といい、PTAといい、書物はつねに学校の“良識”水準から狙われる。


 宗教をめぐる書物が発禁や弾圧の目にあうのは、歴史の“常識”になっている。『聖書』『コーラン』『タルムード』も例外ではなかった。

 しかし宗教の側が(バチカンや教会や寺院連盟など)、一般書であるはずの科学書や文学作品を禁止しようする動向もあって、ここではそういう書物が問題にされている。ブルーノやガリレオが弾圧されたのも、この例である。が、その一方で、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』(1774)やスタンダールの『赤と黒』(1831)、あるいはディケンズの『オリバー・ツイスト』(1838)はなぜ禁書になったのか。

 ゲーテの本は、若者がウェルテルの真似をして黄色のチョッキ(ベスト)を競って着るようになったり、中国でウェルテルとロッテのペア陶器人形がどんどん作られてドイツに送られてきたまではご愛嬌だとしても、ウェルテルを追って自殺する若者が次々にあらわれて、ついに禁圧処分がくだされた。

 『赤と黒』に介入したのはカトリック教会である。ここではスタンダールの宗教権威無視の態度が問われた。『オリバー・ツイスト』はあの元気な孤児が乞食街に生きようとする底辺擁護の姿が問題になったのではなく、小説のなかでのユダヤ人の描写が咎められた。これは、いまでも差別用語が問題になるのと変わらない。

 最近の宗教的弾圧で最もおぞましい事件となったのは、サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』(1988)であろう。

 イギリスで出版されるとすぐに、この作品は独創的な傑作だと激賞されたのだが、インド政府は、マホメット(ムハンマド)の生前逸話がイスラム社会に混乱をおこすと見てただちに発禁にし、イギリスのイスラム問題活動委員会も本の回収と破棄を要求、南アフリカでは出版そのものが事前に禁止された。アメリカで出版を引き受けたペンギンブックスにも爆弾や脅迫が届いた。

 それでも『悪魔の詩』の話題は収まらず、1989年にはついにホメイニが「ファトワ」を声明して、ラシュディ暗殺とその関係者の糾弾を打ち出したため、事件は最悪の様相を呈した。

 その数カ月後、ホメイニは亡くなるのだが、1991年になって日本語訳者の五十嵐一さんが筑波の研究室で殺され、ついに暗殺が遂行された。事態はそれでも鎮火せず、ついでイタリア語訳者が重傷を負い、ノルウェーの版元責任者が撃たれるという事件が続発した。今日も追われているであろうラシュディは、いまなおロンドン警察の保護のもとにいるという。


 宗教をめぐる書物が発禁や弾圧の目にあうのは、歴史の“常識”になっている。『聖書』『コーラン』『タルムード』も例外ではなかった。

 しかし宗教の側が(バチカンや教会や寺院連盟など)、一般書であるはずの科学書や文学作品を禁止しようする動向もあって、ここではそういう書物が問題にされている。ブルーノやガリレオが弾圧されたのも、この例である。が、その一方で、ゲーテの『若きウェルテルの悩み』(1774)やスタンダールの『赤と黒』(1831)、あるいはディケンズの『オリバー・ツイスト』(1838)はなぜ禁書になったのか。

 ゲーテの本は、若者がウェルテルの真似をして黄色のチョッキ(ベスト)を競って着るようになったり、中国でウェルテルとロッテのペア陶器人形がどんどん作られてドイツに送られてきたまではご愛嬌だとしても、ウェルテルを追って自殺する若者が次々にあらわれて、ついに禁圧処分がくだされた。

 『赤と黒』に介入したのはカトリック教会である。ここではスタンダールの宗教権威無視の態度が問われた。『オリバー・ツイスト』はあの元気な孤児が乞食街に生きようとする底辺擁護の姿が問題になったのではなく、小説のなかでのユダヤ人の描写が咎められた。これは、いまでも差別用語が問題になるのと変わらない。

 最近の宗教的弾圧で最もおぞましい事件となったのは、サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』(1988)であろう。

 イギリスで出版されるとすぐに、この作品は独創的な傑作だと激賞されたのだが、インド政府は、マホメット(ムハンマド)の生前逸話がイスラム社会に混乱をおこすと見てただちに発禁にし、イギリスのイスラム問題活動委員会も本の回収と破棄を要求、南アフリカでは出版そのものが事前に禁止された。アメリカで出版を引き受けたペンギンブックスにも爆弾や脅迫が届いた。

 それでも『悪魔の詩』の話題は収まらず、1989年にはついにホメイニが「ファトワ」を声明して、ラシュディ暗殺とその関係者の糾弾を打ち出したため、事件は最悪の様相を呈した。

 その数カ月後、ホメイニは亡くなるのだが、1991年になって日本語訳者の五十嵐一さんが筑波の研究室で殺され、ついに暗殺が遂行された。事態はそれでも鎮火せず、ついでイタリア語訳者が重傷を負い、ノルウェーの版元責任者が撃たれるという事件が続発した。今日も追われているであろうラシュディは、いまなおロンドン警察の保護のもとにいるという。




 『悪魔の詩』


禁書や発禁本c


イギリスの作家サルマン・ラシュディーによる、イスラム教の開祖マホメット(ムハンマド)の生涯を題材にした小説。イスラム教の聖典コーランの一説は神の予言ではなく悪魔によるものだといった内容が、世界のイスラム教徒からの反感を招く。イランの最高指導者ホメイニからは死刑宣告を受けるまでに発展。


 『我が闘争』


禁書や発禁本f

 
 アドルフ・ヒトラー著

彼の自伝的部分と政治的世界観が書かれた書籍。ヒトラーがミュンヘン一揆の失敗後に獄中で書いたものである。人種主義的な思想が色濃く、反ドイツ的なものの創造者がユダヤ人であるといった反ユダヤ主義が顕著。世界とは人種間の覇権争いの場であるといった軍国主義 についても詳細に記述されている。


 『アンド・タンゴ・メイクス・スリー』


禁書や発禁本d


 (邦題 タンタンタンゴはパパふたり)

同性愛のペンギンが子供を卵からかえすという内容の絵本。アメリカでは学校の図書館からの撤去要請が出されました。ある動物園で実際にあった話であるのに・・・。オスのペンギンカップルが卵をかえせないメスに代わって赤ちゃんを誕生させたというもの。この内容に対し、同性愛がノーマルなことであると子供が勘違いしかねないとキリスト教団体が反発した。



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男と女の永遠に交わらない漸近線

余白の人生

00 han 葛飾北斎 富嶽三十六景 神奈川沖波裏


荒れ狂う沖の波を、男性的なタナトス志向の双曲線と考えれば、

遠景の不動の富士山が女性の立体空間的漸近線というわけだ。

そういえば、男は単純・直情で二・三次元にしか住めない。

女は、忍者のように自由変幻自在で三・四次元世界の住人だ。

これでは、永遠に交わるはずがない。






 男と女の永遠の漸近線




わたしは、虐げられた日本女性の味方であり、これまで女性のすばらしさ(生命力、忍耐力、平和的解決力、不争の徳、包容力、助けあい、育児能力・・)をブログで一貫して讃えてきた。

とにかく、日本の男社会の男尊女卑や女性蔑視の精神構造は江戸時代のままで進化していない。これは、特に高齢者の指導者層に多い現象であるが、男の無能さ、非力、短絡思考を裏返しに物語っている。

男が女をなぜ理解できないのか? 女が男をなぜ誤解するのか?
この日本特有のガラパゴス的思考は、平行線のまま永遠の解決不能の命題でもある。

もちろん、女性蔑視、女性虐待、DVは日本だけではなく、イスラム文化圏、インドのヒエラルキー(不可触民・一億人)、アフリカ、中国、韓国・・世界のいたるところで報道されている。


戦闘的で好戦的な雄の遺伝子=タナトスは、平和的解決能力がなく、もはや、この地球上には不必要な無用の長物である。生物界ではすでに雄を必要としない無性生殖、単為生殖が始まっていることが証明している。

悲しいかな、雄の脆弱なXY遺伝子=男、は宇宙規模で今後消滅するだろう。
人類が生き残るためには、雌=女性の強靱なXX遺伝子が不可欠で、それで十分なのだ。

永遠の謎である、女と男の根源的相違点を、生物学的のみならず、哲学的・文学的視点から追ってみた。




 男と女の根本的違い


 男と女の根本的違いについて、D.H.ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』に興味深い論評を見つけた。

 冒頭で、コニーが初体験でさしてセックスに興味が持てなかったことを書いた筆のその先で、「女性の美しい純粋な自由というものは、どんな性的な恋愛よりも無限に驚嘆すべきものなのだ。唯一の不幸な点は、男性がこの問題でははるかに遅れてぐずぐずと歩いていることである。彼らは犬のようにセックスのことばかり考えている」と女性讃歌をするかと思えば、中盤でメラーズにこう言わせる。「おれは暖かい心というものを信じる。特に恋愛の暖かい心、暖かい心でする交わりを信じる。男が暖かい心でやるようになり、女がそれを暖かい心で受け入れるならば、あらゆることがよくなると信じるね」。

 私はそれまでなにを読んでいたのだろう? のっけから文明(工業化)社会と、その下部構造にじわじわと侵されていく人間の精神という主題は明示されていたのにである。コニーと森番メラーズの逢い引きの場所になる森が、野生の水仙が香り、咲き出たばかりの菫が小径を彩り、雉の雛が孵(かえ)る生気ほとばしる場所(サンクチュアリ)として描かれるのとは対照的に、その外側ではボタ山がくすぶり、溶鉱炉の赤い火が燃え、工場の騒音や三交替制の坑夫を坑内に入れる捲揚機、国道を走る車のエンジンの音が渦巻く、煤で汚れた醜悪なカンバスが広がっていた。


 「男と女の生物時間」


 ミラン・クンデラの『無知』では、「男と女の生物時間」をわかりやすく解説している。

 時間と郷愁について大変興味深い考察を繰り広げるこの作品の中で、クンデラは「郷愁の数学的パラドクスともいうべきものを理解しなければならない」として、郷愁を老いのセンチメンタルな徴候と見る私たちの思いこみとは、まったく逆のことを言っている。「郷愁がもっとも強いのは、過去の人生の総量がまったく取るに足らない青春時代なのである」

 クンデラの最新作『無知』は亡命の終わりを描いた作品だ。永遠に続くかと思われたソヴィエト・ロシアの支配が終わりを告げ、それぞれの国で新しい生活を送っていた亡命者たちが複雑な思いを抱きながら故国へ帰る。

 男女関係の不条理と歴史の不条理を、哲学的に、文学的に綴ったクンデラの読者にはお馴染みの手法である。『オデュッセイア』を引き合いに出しながら、故国に戻ったオルフェウスは果たして幸せだったのか? と問いかける。

 亡命という「物語」はつねに、故国から離れることの悲劇性と帰還の美しさを語ってきたわけだが、いざ亡命者が故郷に帰ればそこに彼らの居場所などありはしない。そうしたエピソードから炙りだされるのは、記憶はあまりにも小さく、経験や知識は常に何の役にも立たない、という人間の本質的な状況である。それが悲しくも愛すべき人間の「無知」というわけだ。

 クンデラが描くプラハに、幻想の入りこむ隙はほとんどない。あっという間に資本主義化したこの街を、ただ客観的に眺めているという感じだ。主人公の目に一瞬垣間見えた、愛すべき自分だけのプラハでさえ、それが彼女の住むパリへと続く人生の個人的な断片でしかないことをクンデラは意識している。

 クンデラにとって「亡命」は明らかに終わったのだ。
「懐かしい」という言葉、そして感覚を愛すること。当たり前のようでいて、ちょっと不思議でもある。何かが「失われた」ことに気づくからなのか、それがほんの少しばかり「戻ってきた」と感じるからなのか。

 いずれにせよ、この言葉への甘い幻想を打ち砕いてみせたこの小説は、読んでいて苦しい。それを軽いタッチで描いてさらりと流してしまうあたり、さすがクンデラと言うべきなんだろうか。

 男と女の生物時間はかなり皮肉だ。生物として淡くなってきたころ、男はようやく悲哀を知って脂ぎったものが脱け始める。反対に、女はたっぷり濃厚な出汁がとれそうなほど骨髄に経験を蓄えて、これまでの無為の悲哀に立腹し始める。渋い中年男性はいても、渋い中年女性などというものは存在しないのはそのためだろう。

 そうは言いながらも、思春期、適齢期の男女の出逢いがない空間、都市空間、田舎の過疎地域はますます疲弊して廃れ、大都市への一極集中化という抗いがたい流出現象が激しくなっている。


 養老孟司の『バカの壁』の表現も秀逸


 「人間同士が理解しあうというのは根本的には不可能である。理解できない相手を、人は互いにバカだと思う」というのがこの本の底流にある。

 「女には、幼年期とか、少女期とか、青春期、老年期など、そういう区切りというのは、一切なくて、ただ、女というべたーっと、続いたものがあるだけである。そういうのっぺらぼうの時間感覚を生きているのが女である。」  

 メノポーズの時期になると、これがきたらどうしょうと、思い悩む。個人差はあろうが、ちょっと、身体がだるかったり、辛かったりするが、それがすぎて、体調がよくなると、まるで少女期にもどったように、再び、るんるん、けろっと忘れて楽しい余生を送ることができるらしい。

 サバイバルに強いはずだ。男には絶対真似のできない生理学的現象である。
 
 
 漸近線


ある曲線が、原点から無限に遠ざかるにつれて、限りなく近づいてはいくが、決して交わらないし、接しもしない直線。


漸近線(ぜんきんせん)


グラフ上の様々な曲線(仮に、死への衝動=タナトス曲線)に対し、永遠に交わることのない青色の直線(女性)は漸近線の関係と思えばわかりやすい。





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壱岐の清楚な山野草 オカトラノオ

余白の人生

zz zo オカトラノオ





 壱岐島の清楚な山野草



zz zo オカトラノオa



 20170606 山野草回想


私の過去の記憶は、折々の赴任地で採取した茶花・山野草とともに焼きついている。

清らかで可憐な山野草を観ると、その群生地の分布図がよみがえる仕組みになっているのだ。


zz zo オカトラノオa-2


40代後半で3年間お世話になった壱岐の島は、山海の珍味はもとより、まだ手付かずの本土では眼にすることのない希少種の山野草の宝庫でもあった。

春蘭などは、場所を問わず島全体が群生地であって、土地の人たちは見向きもしなかった。


zz zo オカトラノオa-1


この時期になると、農道、山道、田んぼの縁には、ホタルブクロやオカトラノオが群生していた(猿岩、旧郷ノ浦町有安触の里浜海水浴場・御手水観音に通じる沿道が特に宝庫だった)。

映画・流行歌はあまり興味がなかったから、記憶とオーバーラップすることはないが、山野草は、魏志倭人伝時代から存続する遺跡や古い寂びれた神社仏閣とともに脳裏に沈殿している。




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森の可愛い道化師たち 「森の小人」讃歌

忘れえぬ光景

DSCN0422 (2)





 森の可愛い道化師たち



  20180522 かわいい葉っぱの道化師たちと



DSCN0415 (2)


森は、わたしのやさしい恋人
森は、わたしの夢のゆりかご

森は、わたしの生命の泉
森は、わたしの芝居小屋

森は、わたしの幼なじみ
森は、わたしの終の棲家


DSCN0423 (2)


木漏れ日チラチラ深山幽谷
そよそよ撫でるよ皐月の薫風

葉隠れチロルのフィトンチッド
かわいい葉っぱの道化師たちと

チロチロ流れる水笛で
一緒に手を取り踊ったよ

小人さんと仲良くドンジャラホイ
嗚呼 ホーイのドンジャラホイ


DSCN0419 (2)


作詞:イシコロ幽石斎 雲鶴山房主

森の若木のフラクタル模様に感激して有作





 「森の小人」


 玉木登美夫・山川清 作詞(注)
 山本雅之 作曲


森の木陰(こかげ)で ドンジャラホイ
シャンシャン手拍子(てびょうし)足拍子
太鼓(たいこ)たたいて 笛ふいて
今夜はお祭り 夢の国
小人さんがそろって にぎやかに
ア ホイホイヨ ドンジャラホイ


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おつむふりふり ドンジャラホイ
かわいいお手手で 踊(おど)り出す
三角帽子に 赤い靴
お月さん にこにこ森の中
小人さんがそろって おもしろく
ア ホイホイヨ ドンジャラホイ


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お手手つないで ドンジャラホイ
ピョンピョン はねはね輪になって
森の広場を 廻(まわ)ります
今夜は明るい 月の夜
小人さんがそろって 元気よく
ア ホイホイヨ ドンジャラホイ


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みんなたのしく ドンジャラホイ
チョンチョン お手手を打ち合って
夢のお国の森の中
そろいのお服(ふく)で 踊ります
小人さんがそろって 楽しそうに
ア ホイホイヨ ドンジャラホイ


x r 日本 野生の春蘭


(注)

作詞者の部分を「山川清作詞・玉木登美夫補作」としていたが、間違いだった。
この歌は、昭和16年7月に玉木登美夫 作詞・秋田喜美子 唄による「土人の祭」として発表されたが、戦後、進駐軍(GHQ)のチェックが入ったため、レコード会社のディレクターが山川清のペンネームで改変したものである。




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竹籠花入 茶花は楚々として凛として

余白の人生

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 竹籠花入れ



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 20180522 茶花は楚々として凛として


0 nohana #撫子 #都忘れ #京鹿の子白


茶道の世界では、6月から炉から風炉に変わる

茶花の花入も籠に変わり、夏らしい演出に設える


0 nohana 柱掛けの鉈籠に。 笹百合、桔梗、半夏生、虎の尾


ニンゲンと同様に、雑草という茶花は存在しない

万物に生命が宿る、と思うから切花を裁く華道のやりかたはあまり好まない

ブツ切りした色とりどりの多種生けは、暑苦しく見るも無残である


0 nohana 今月から茶道は炉から風炉に変わり、茶花の花入も籠に変わり、夏らしい演出になりました ホタルブクロ、京鹿の子、シマアシ、甘茶



Simple を突き詰めていけば、究極は無=死に到達する

スティーブ・ジョブズは、Simple is Best. を遺して逝った


0 nohana トウチクラン ノコギリ草 キンシバイを長宗全籠


茶花は、一期一会の而今の刹那・瞬間を表現すればいいのだ

ゴテゴテとズタズタに分解する多種生けは見苦しいだけである


0 nohana 秋の残花 #大徳寺 #瑞峯院 #茶室 #籠花入 #木槿


日本の夏は、花器はガラスか竹籠が涼味満点で茶花が活きる



0 nohana 8月1日 #旧暦 六月十日 #大暑の頃 夏は眠い


 茶花の水揚げ成功率を高めるために




水揚げの悪い「京鹿の子」が5本全部蘇生した \(^o^)/


DSCN0377.jpg


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 茶花は生きている


毛根を付けずに、水を揚げる管束を切断したら即死状態になる。
切花採取の場合、直ぐにor数分以内に水補給の容器(ペットボトル)を準備すること

ジゲモン販売所でよくやる、水を含ませたチリ紙で包む、では不十分である
心肺・呼吸停止の萎れた花が再生することはない。
茎や幹木が細いほど、長持ちしない

帰宅したらすぐに、満水のバケツに生け、水揚げをよくする
水揚げの悪い植物(京鹿の子など)は、そのまま2,3日浸しておく
本当の花愛好家であれば、この程度は常識である


水揚げ、長持ち成功率が高い順に花器を挙げる


花の分泌養分と器の流出成分の相性を観察すること
相性が悪ければ、直ぐに萎れることもある
加齢で、重量大壺など直接水入れを避け、アルミ缶を使う


・青銅器・古銅・唐銅は最高に良い
・近代製作でも高岡銅器・南部鉄器
・アルミ缶 …水漏れする焼き締め陶の落としによく使っている
・焼き締め …古備前、古伊賀などの六古窯、南蛮焼き締め、鬼の腕
・時を経た古陶磁器
・時代物、レトロガラス器、ボトル全般


水揚げが悪い容器…これも花との相性がある

・竹籠とセット等のプラスティック(外気温を吸収する植木鉢も)製品全般
・出来立ての陶磁器…煮沸して分泌成分を抜けばいいかも
・容器内部を水漏れ塗布加工、補修したもの
・塩素など不純物多い水道水は、人同様に植物をダメにする




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