一生一石

愛犬とイシコロのお話

花喰紋の欄間装飾彫刻の懸魚発見

書画・骨董

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 記憶から完全に遺失していた

 花喰紋の欄間装飾彫刻の懸魚 


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 昔の収蔵骨董品を忘れる悲哀と喜び


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 20170924 蘭友の寒蘭小屋を視察に







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 「花喰鳥」紋『懸魚』は甘い香りの香木



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 『懸魚』 神社仏閣、仏壇、山車の軒下飾り木彫



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倉庫(骨董品置き場)の奥を整理していたら、『懸魚:げぎょ』があった。

別々の透かし彫り木彫を二枚重ねて立体感を持たせている。


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20年以上前に、「花喰鳥・朱雀・鳳凰」紋の飾り彫刻に魅せられて購入した。


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当時、民藝的な建造物飾り彫刻は、安価で骨董屋に結構出回っていた。


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現在では、姿を消して職人の匠の技である作行きのいい古物はほとんどない。

出まわっているのは、日本人目当ての中国・東南アジアの新物模造品ばかりだ。


zzzz 懸魚 げぎょう 懸魚 寺院用欅彫刻


「花喰鳥」の『懸魚』は、甘い香りの強い香木だった。ラッキー!!


zzzz 懸魚 松と鳥


白檀、檜、楠などの香木は、仏像や懸魚(げぎょ)彫刻に惜しみなく使われている。



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『栃の木で老猿を彫ったはなし』 ②

文学・芸術

00 高村光雲 高村光雲 老猿





  『栃の木で老猿を彫ったはなし』

  高村光雲



 案の条、五月が来ても何んの音沙汰おとさたもない。
「高村さん、発光路ほっこうじの一件はどうなりましたね」
 後藤君は五月の中頃なかばになって私に聞きました。
「何んの音沙汰もありません。相手があれですから、当てにはなりませんよ」
 私は答えました。

「では、私が一遍発光路へ行って見て来ましょう」
「まあ、も少し待って見ていましょう。五月一杯だけは……」
 そういって、もう音信たよりはないものと思いながらも約束は約束だから待っていますと、先方も満更まんざら打っちゃって置いたのではなく、五月の末になって、長谷川栄次郎からたよりがありました。それで、今度は後藤君に出掛けてもらうことにして、氏は二度目に発光路へ参りました。

 そうすると、いろいろ難儀なことが出来て、実に閉口したと帰って来てから後藤君が話された処によると、木挽こびきは木を四ツにしたのです。直径さしわたし六、七尺のものを長さ六尺ずつ二つに切り、それを縦に二つに割ったのです。これは持ち運びのために重量を減らすつもりで、切り倒したその場でやった仕事だが、これがかえって仕事の邪魔になって大変面倒だったのです。というのは二つ割りにしたために木の形が蒲鉾型かまぼこがたになったから、崖がけから下へ転ころがり落とせなくなったのです。

 丸太のままで置けば、両手で押してもごろごろと下まで落とせたものを、蒲鉾型になったので、どうしようもない。二人や三人では動かすことも出来なくなった。しようがないから人足を頼んで、いろいろ仕掛けをして、ずるずると下へ辷すべり卸したということですが、こういうことには経験のありそうなはずの山の人間でも智慧ちえが働かなかったか二つに割ってしまった。またわれわれにもこういうことに経験があったら、前に注意をして置けばよかったのに、経験のないため、飛んだ無駄骨むだぼねを折ることになりました。

 さて、山から麓ふもとまでは、どうやら辷り落としたが、其所そこから往来まで持ち出すのがまた大変……山際ぎわには百姓家の畠があって、四、五月から物を植え附けてある。その畠を転がさねば往来へ木は出ません。
「損害は賠償するから、どうか、畠を通して下さい」
 後藤君は畠の持ち主に頼んだが、どの持ち主も不承知。これには後藤君もハタと当惑しました。

「どうも面倒なことが出来て困りました」
といって後藤君は帰って来ました。
 訳は、百姓が畠を荒されるので、木を通さないということ。いろいろ相談しました結果、今度発光路へ行く時は学校用品を買って持って行こうということにしました。それはこうした山村で学校用品も乏しく、東京の品は珍しいので、これを小学校の生徒へお土産みやげにすれば、生徒は無論、父兄や、教員たちはきっとよろこぶであろう。そこで校長から父兄に訳をいって頼んでもらったら、こっちの好意もあることで、何処までも意地を張りもしなくなるであろうという思い附き。これは両方で都合も好いことで、甚だ名案だというので、後藤君は学校用品を仕入れて三度目に発光路へ出張したのであった。

 そうして、目論見もくろみ通りをやったところ、予期通りそれが旨うまく行って、文句なしに畠を通してくれました。此所ここまで漕こぎ附けるには容易なことではなかったので、後藤君がいろいろ骨を折ってくれましたが、確かこの三度目の時に後藤君と一緒に新海竹太郎君も同行されていろいろ面倒なことをやって下すったと記憶しております。

 木は往来まで出すには出しましたが、これから船に積むので牛車に附け、人足が大勢掛かって川岸まで二里ほどある道を運ばなければならないのです。それに、川まで行く間に小川が二つあって、田舎のことで粗末な橋が架かっているのだから、非常な重量な牛車は通れません。まず橋の手入れとして予備杭ぐいなどをやって大丈夫という所で、牛車を通したような訳で、手間の掛かること夥多おびただしく、そのため運賃は以前約束した四十円どころでなく、その六、七倍となりました。それから糟尾川かすおがわを船に積んでそれから道中長々と花川戸まで出すことにして、後藤君らは帰って来ましたが、花川戸の河岸まで来るのがまた容易でなく、随分日数を重ねまして、総領娘が亡くなる少し前、八月の半ば過ぎにやっと河岸へ着いたという報しらせを受けました。
 それから、木を谷中の家へ引き取りましたが、庭に抛ほうり出して置くほかにしようもなく、大きな四ツの蒲鉾なりの木が転がったままで雨被いを冠かぶっておりました。
 しかしこの材木は後でなかなか皆さんの重宝にはなりました。
 政府から四百円の補助を私は受けたけれども、この材木のために半額の二百円ほどとられました。木代は三円ですが、面倒の交渉に使った旅費、学校用品代、橋の修繕費、運賃などで二百円以上を掛けたのは、先の四十円の予算とは大変な番狂わせでありました。
 右の材の一つ分は、竹内先生が使い、も一つは山田鬼斎氏にお譲りし、も一つは二、三の先生が分けられたように記憶しています。それを思うと、二百円も高いものではなかったのです。

 私は、いよいよ猿を彫ろうと目論もくろんでいる処へ、八月の末に娘が加減が悪くなり、看護に心を尽くした甲斐もなく、九月九日に亡くなってしまいましたので、私の悲しみは前にも申したような次第で、一時は何をする気も起りませんでしたが、こういう時に心弱くてはと気を取り直し、心の憂うさを散らすよすがともなろうかと、九月十一日娘の葬送を済ますと直ぐに取り掛かったことでした。


00 高村光雲 猿・三番叟(高村光雲作)


 もはや、明治二十五年も九月の半ば、農商務省からの日限はその年の十二月のさし入れに製作を納めなければならんという注文。今日から手を附けても、随分時期は遅れております。木は庭に雨掩あまおおいをこしらえて、寝かせたままで、動かすことも出来ません。何しろ一片が九十貫もあるのですから……。

 そこで、いよいよ鑿のみを入れて見ましたが、栃は木地の純白なものと思っていたのは案外。この材の色は赤黒く、まるで桜のように茶褐色ちゃかっしょくでありますので、最初の白猿を彫ろうという予期を裏切られました。しかし、材質はなかなかよろしく、彫刻には適当でありました。栃の木の木地の純白なのは若木のことで、この木のように年を経ては茶褐色を呈して来るものかと思いました。

 白猿の当てははずれたが仕方なく、考えを変えて野育ちの老猿を彫ることにしました。とても仕事場へ運んで屋根の下で仕事をすることは出来ませんので、庭の野天で、残暑の中に汗みずくとなり、まず小口こぐちからこなし初めました。何しろこのような大きなものだから、弟子を使ってやりました。その頃米原雲海よねはらうんかい氏も私の宅に来ていたので手伝い、また俵光石氏も手伝いました。


00 高村光雲 高村光雲 老猿 東京国立博物館


 娘のことで、ほとんど意気消沈しておりましたのが、この仕事で大いに勇気附けられ、また紛れました。
 それから、モデルはその頃浅草奥山に猿茶屋があって猿を飼っていたので、その猿を借りて来ました。この猿は実におとなしい猿で、能よくいうことを聞いてくれまして、約束通りの参考にはなりました。物置きに縛つないで置いたが、どんなに縄をむずかしく堅くしばって置いても、猿というものは不思議なもので必ずそれを解いて逃げ出しました。一度は一軒置いてお隣りの多宝院の納所なっしょへ這入り坊さんのお夕飯に食べる初茸はつたけの煮たのを摘つまんでいるところを捕つかまえました。一度は天王寺の境内へ逃げ込み、樹から樹を渡って歩いて大騒ぎをしたことがありますが、根がおとなしい猿のことで捕まえました。

 私の猿の彫刻はほとんど原型がなく(ほんの小さなものをちょっとこしらえたが)、いきなり、カマボコなりの八、九十貫ある木をつかまえて、どしどし小口からこなして行ったのでした。栃の木は檜や桜などと違って、また一種のものでちょっと彫りにくいところのあるものです。農商務省との約束は十二月のさし入れというのですが、その年一杯にはとても仕上がらず、翌年へ掛かったのでした。

 (青空文庫)




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『栃の木で老猿を彫ったはなし』 ①

文学・芸術

00 高村光雲 高村光雲 老猿1





 『栃の木で老猿を彫ったはなし』

  高村光雲

   


 総領娘を亡くしたことはいかにも残念であったが、くよくよしている場合でもなく、一方には学校という勤めがあるので取りまぎれていました。

 すこし話が前後へ転じますが、その年の春、農商務省で米国シカゴ博覧会に出品のことについて各技術家に製作を依嘱していました。私にも木彫もくちょうとしての製作を一つ頼むということであった。

 この出品については、政府が奨励をしました。しかし政府出品ではなく、出品は個人出品ですが、奨励策として、個人の製作費を補助したのであります。たとえば私が八百円のものをこしらえて出すとすると、その価格の半額を政府で補助し、もしそれが売約になればその代金も補助費もすべて作家の方へくれるので、その上出品は作家の名でするのでありますから、作家側に取っては大変に都合の好いことでありました。当時はまだ政府当局がこれ位の程度に補助していたものであった。しかしこの時限り補助という事はやみましたし右のような都合で私も何か製作しなければならない。何を作ろうかと考えましたが、その以前から栃とちの木を使って何かこしらえて見たいという考えを持っていました。この栃の木という材は、材質が真白で、木理もくめに銀光りがチラチラあって純色の肌がすこぶる美しいので、かつてこの材を用いて鸚鵡おうむを作り、宮内省の御用品になったことがある。それで今度も栃の木の良材を探し、純色で銀色の光りのある斑ふを利用して年老とった白猿をこしらえて見ようと思いました。
 その頃は私は専ら動物に凝っていた時代で、いろいろ動物研究をやっていた結果こういう作を考えたのであった。

 そこで、丸太河岸の材木屋を尋ねて見ると、栃の木の良材はあるにはあるが、何分にも出し場が悪いので、買い入れを躊躇ちゅうちょしているのですが、材木はすこぶる立派で、直径さしわたし六尺から七尺位のものがある。ただ、困るのは運賃が掛かるのと、日数がかかることで、商売になりませんから手を出さずにいますという話で、その場所をも教えてくれました。

 それで私はこの事を後藤貞行君に話すと、それは一つ直接当って見ようではありませんか、あなたがお出でになるなら、私もお手伝いかたがた同行しましょう、というので、私は栃の木の買い出しにその地へ参ることになりました。

 其所そこは栃木県下の発光路ほっこうじという処です。鹿沼かぬまから三、四里奥へ這入はいり込んだ処で、段々と爪先つまさき上がりになった一つの山村であります。私と後藤氏とは上野発の汽車で出掛けたが、汽車を乗り違えたため宇都宮うつのみやに一泊し、翌早朝鹿沼で下車し、それから発光路へ向いました。

 時は三月で、まだ余寒が酷きびしく、ぶるぶる震えながら鹿沼在を出かけましたが、村端むらはずれに人力車屋くるまやが四、五人焚火たきびをして客待ちをしております。私たちは、彼らの前を通れば、必ず向うから声をかけて乗車をすすめることと思っていたのに、くるま屋は何ともいわず、通り過ぎても黙っていますので、少し当てがはずれ、こっちから立ち戻って言葉を掛け、発光路まで幾金いくらで行くねと聞きますと、発光路って何処どこだいと一人の車夫はいってるのには驚きました。も一人の車夫は発光路ってこれから四、五里もある山奥だ、道が悪くてとても大変だよといっている。そんな処はおれは御免蒙こうむりだといったり、道が遠くて骨が折れるからまあよそうなどと、とても話になりそうでなく、強いて乗ろうといえば足元を見られるに決まっているので、後藤君は軍人だけに健脚で「何も車に乗るほどのことはありません。発光路まで歩きましょう」と歩きかけますので、私は少々困ったが、まだ若い時のこと「では歩きましょう」と二人でてくてく歩きはじめました。


00 高村光雲


 山にはまだ雪が白く谿間たにまなどには残っており、朝風は刺すように寒く、車夫のいった通り道もわるい。もうよほど歩いたから、発光路も直じきだろうと、道程みちのりを聞いて見ると、ちょうど半途はんとだというので、それからまた勇気を附けて歩きましたが、歩いても、歩いても発光路へは着かない。段々爪先上がりの急になって道は嶮けわしく、左手に谿間があって、それが絶壁になっており、水の落ちる音がザアザアと聞える。
「どうもえらい処ですね。……しかし絵師などには描かけそうな処だ」
など話しながら、足は疲労くたびれても、四方あたりの風景の佳いいのに気も代って、漸々ようよう発光路に着いたのがその日の午後三時過ぎでありました。

 家屋といっても家屋らしい家はなく、たった一軒飯屋兼帯の泊まり宿があって、その二階に私たちはひとまず落ち附きました。それから湯に這入はいり、食事をしましたが、食べるものは何もない。何かあるかというと牛があるというので、この山奥に牛肉は珍しい。それを買って来てくれといって煮てもらって箸はしをつけたが、とても歯も立たないので驚きました。

 さて、それから、材木屋に掛け合うことになって、その男が来ました。名は確か長谷川栄次郎とかいったと覚えていますが、立派に姓名はあっても、逢って見るとまるで山猿同然のような六十四、五の爺じいさん……材木屋といっても、杣そま半分の樵夫きこりで、物のいいようも知らないといった塩梅あんばいですから、こういうものを相手にして掛け合って、話が結局旨く運ぶかどうか、甚だ危ぶまれましたが、もう此処ここまで出掛けて来ているので、話を進めるより道なく、段々右の男に当って見ると、栃の木の佳いのはいくらもある、それらは大概崖がけに生はえているのだが、小判形こばんがたで直径さしわたし七尺以上のものがあるという。それで、直段ねだんは何程いくらかと聞くと、三円だというので、その安いのにはまた驚きました。

 直径さしわたし七尺有余もある栃の木といえば、その高さもおおよそ察せられましょう。枝が五間十間と張り拡ひろがって、山の半腹を掩おおわんばかり、仰いでは空も見えないほどでありましょう。そういう大木でしかも材質が上等で彫刻の材料になろうというのが一本ただの三円とは、まるで偽うそのようなことですが、それでも、宿屋の主婦に相場を聞いて見ると、少し高いという話。あの老爺おやじさんは確か二円五十銭で買ったはず、五十銭儲もうけるとはひどい、もっと負けさせなさいなどいっています。しかし、三円なら値ぎりようもありません。木の当りもこれで附いたので、その日は其所そこに泊まり、翌朝実地に木を見ることにしました。

 この土地では栃の木は切り倒して焚たいております。……栃木県というのは栃の木が多いから附けられた名か、それは知りませんが、何んでもこの附近一帯の山には栃の木は非常に沢山あります。しかも喬木きょうぼくが多いのですが、その代り田地はない処。畠はたけはあるが、畠には一面に麻を植えてあります。鹿沼は麻の名産地といわれる位の処で、垣根も屋根の下葺したぶきもすべて麻柄おがらを使ってあって、畠は麻に占められているから、五穀類は出来ません。それで住民は何を食物くいものにしているかというと、栃の実を食べている。栃の実を取って一種の製法で水に洒さらして灰汁あくを抜き餅に作って食用にしている。それで、栃の木の所有は田地の所有と同じ格で、嫁入り婿取りなどに、栃の木何本を持って行くとかいって、数の多いのが有福の証となった位、栃の木はつまり食い料でありますから、この近在に栃の木の多いのも道理もっとものことであります。

 しかし、今は栃餅のはなしもなくなりました。その後、足尾銅山が開けて交通が便利になって以来、栃餅を食うことはやみました。銅山の仕事で、土地にも金銭が落ちる。銅を積み出した荷の帰りは米を積んで来ますから、五穀はふんだんに這入って来るので、余り旨くもない栃餅を食べるものはなくなった次第です。こうなると、栃は厄介やっかいなものになってしまい、場ふさげで、値もなくなったから、切り倒して焚たいてしまって、後へ杉苗とか桐苗を植えるような始末で、栃の木は貰い手があればただでもくれたい位なものになっているのですから、東京から、ただでもいらないものを金出して買いに来るとは、物数寄ものずきな人もあったものというような顔を宿屋の主婦がしていたのも道理もっとも、一本三円でも高いといった言葉も本当のことでありました。


00 高村光雲 高村光雲 老猿 東京国立博物館


 さて、翌日実地検分に出掛けました。
 山猿のような例の老爺おやじが先に立って私と後藤君とは山道に掛かりましたが、左の方は断崖絶壁……下を覗のぞいて見ると、幾十丈とも分らぬ谷底の水が紺青こんじょう色をして流れている。それを見ると、もう一足も先に出ないような気がします。というのはその断崖の山の半腹から道がその絶壁の谷へと流れていて、それを我々は攀よじているのですから、ひょっと踏みはずせば、千尋の谷底へ身体からだは落ちて粉微塵こなみじんとなるわけです。しかし、山猿のような人間には、何んでもないこと、木の枝岩角いわかどなどに縋すがって、私たちの手を引っ張り上げてくれなどして、漸々だんだん木のある場所まで登りましたが、さあ、今度は降りるのに大変……少し降りかけた処に一本の栃の木が天を摩まして生はえている。
「これだ。お前さんに売ろうという木は……」
と老爺は指ゆびさしました。
 なるほど、話の如く、それは実に立派な栃の木で、幾千年をも経たかと思われる。
「どうも素晴らしい樹きですな」
と後藤氏も幾抱いくかかえもあろうというその幹を見ております。
 老爺が寸法を取ると、廻りが二丈余、差し渡し七尺幾寸かある。
「どうだね。七尺からある。三円は安いもんだ」と老爺は独語ひとりごとのようにいっております。全くその通りで私は三円でその樹を買い取りました。

 さて、木は買いましたが、これを東京へ運ぶのが大仕事……どういうことにするかというと、今は三月ですから、五月までには浅草の花川戸はなかわどの河岸かしまで着けるという。その運賃はと聞くと、三十円位で出せるという。まずそれ位。多少相違はあっても大したことはないということ。それから立木を切り倒し、六尺ずつ二つに切って、これを中通なかとおしをして四ツにする。その木挽こびきの代が十円ほど。木代、木挽代、運賃引ッ括くるめてずっと高く積ってまず四十五円位のものであろうと私は見ました。先方で金額の半金を入れてもらわなければ仕事に取り掛かれないといいますから、二十円の手金てきんを打って、五月までにはきっと間違いなく花川戸の河岸へ着けてくれるように約束しました。

 しかし、この約束はどうも当てにも何もならぬと思いました。前金の受け取りを取っても相手は山猿同様……まるで治外法権のような山村のことで、当の相手が人別にんべつにもないような男である。その他のものでも、この近在に住んでいるものは杣そまで、半分ばくち打ち見たような人間ばかり……こういう人を相手に約束をして、五月という日限をした処で、当てにするものが無理だという位のものですから、私たちはいかにも便たよりなく思いましたが、もう仕掛けた仕事ですから、今さら手の引きようもなく、五月までは待って見る気でこの山を降りて東京へ帰って来ました。

 (青空文庫)




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楊貴妃がこよなく愛した「ライチ 茘枝」

忘れえぬ光景

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 楊貴妃がこよなく愛した

 冷果の女王「ライチ 茘枝」




台湾旅行の余韻がまだまだ続いている。

ライチの時期が重なったのか、市場や道路脇の販売所に緑の枝葉のついたライチが無造作に束ねられて売ってあった。

ライチの美味しさはよく知っていたので、飛びついて買った。台湾元で百元(380円)でヤマモモをもっと大きくしたような果実が30個ほどたわわについていた。試食したが、採れたての抜群の美味しさだった。

旅行中全部食べきれずに、残りは、税関を無事通過して自宅の冷蔵庫に収まっている。 

ライチは中国の代表的な果物でムクロジ科の常緑・高木になり中国南部地方が原産。
またレイシ:茘枝と呼ばれることもある。

食感に弾力があり、餅に似ていることから、餅で作られたものという意味で「ノーミツ」とも呼ばれる。

中国ライチは、約2000年前から栽培され、唐の玄宗皇帝が楊貴妃のために遠い嶺南からはるばる長安まで1000kmを運ばせた話が有名。現在でも中国・台湾では最高級の果物として愛されている。

ライチの旬は6月の中旬から6月の末までのごく限られた期間に限定される。
台湾では、この季節になると皆が朝から果物のある市場を毎日チェックして購入する。
みかんの皮をむくようにむくと、玉がプリンと飛び出し簡単に食べれる。

日本の中華料理店では、夏季に限定してデザートに登場する。
パックをあけるとライチのとてもいい香りがする。
透明感のある白い実は、とても瑞々しく、ミルクのように濃密で爽やかな味がする。


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中国・台湾で高級な果実として愛される理由が他にもある。

両国の故宮博物院を訪れたら、日本にはない玉の文化(硬玉;翡翠、軟玉;白玉など)があり、5000年前の殷や商、西周の時代から、所有し携行する玉そのものが、貴人の家柄、身分証明書、パスポートとして通用していた。

現在でも純金の重さと同等、もしくはそれ以上の価格で取引されている。印材として最高級の田黄(でんおう)凍石、白田、鶏血石は極上の軟玉である。


00 和田(ホータン)白玉


皮をむいたライチの透きとおったミルキーでジューシー(湿潤でみずみずしい透明感)な果肉が、最上級の玉にそっくりなのである。


00 和田(ホータン)白玉印材 107g 648000円


わずか、百元で最高の玉をいくつも所持しているような気分で、しばし文人気取りを愉しんだ。
  



  傾国の美女 楊貴妃


陝西省の省都・西安…かつての名を長安という。
1200年以上前、長く繁栄を誇った古代中国の都には世界の歴史に名を刻む絶世の美女がいた。
楊貴妃については「世界三大美女の1人」「ライチ好き」だったという逸話が耳慣れている。
しかし実は遥か唐の時代、7代目皇帝・玄宗に取り入り、その美貌ゆえに国を滅ぼした。
魔性の女「傾国の美女」とも言われている。

玄宗皇帝と楊貴妃の年の差は約30歳。その壮絶な恋物語は「長恨歌絵巻」によって現代に伝えられている。この絵巻に描かれた真実、また描かれていない真実を追う旅が、いま始まる。楊貴妃と同じ時代を生きた日本人…阿倍仲麻呂、最澄、空海。
彼らはみな「遣唐使」として1200年前に中国と日本の強い絆を結ばせた人物だった。そんな遣唐使の中には楊貴妃と接触を持った者もいた。
その名も弁正。阿倍仲麻呂よりも先に唐に渡った日本人留学僧で、玄宗皇帝の厚い信頼を得、後に阿倍仲麻呂を玄宗の側近にと薦めた人物だった。

弁正であれば玄宗と楊貴妃の恋物語も目撃しているはずである。
楊貴妃38歳…彼女は唐王国の平和を願い、幾度も愛を交わした男に命を断たれる事を受け入れたのだ。
彼女の持つ「美」によって、あまりに悲しい終焉を迎えた楊貴妃。
彼女の人生は果たして幸せと言えたのであろうか?

「傾国の美女」と謳われた楊貴妃の人生はわずか38年、己の美しさに翻弄された波乱の人生であった。
幸福と不幸がめまぐるしく交錯した楊貴妃の短くも激しい人生だった。




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嫋やかな漢語の深遠美が失われいく現代日本

文学・芸術

00 モディリアーニ






 漢語の深遠美から遠ざかる現代日本人



文学・小説の奥深さ(深遠美)を味わうためには、漢字の教養がないと無理である。

また、教養・知識だけでは、真の醍醐味やよろこびを感知することはできない。

これに加えて、實体験、体感、実践をしなければ、作者と同じ領域に達することはできない。


文学者・芸術家に好事家・スケベや薬物中毒患者が多いのはこのためだと推測する。

猥褻・不倫・背徳だと叫んでいる自称?常識人・律法家には意気上がる糾弾項目だ。

チャタレー夫人の恋人、谷崎文学、ピカソ、モディリアーニの絵画がわかるはずがない。


なんの変哲もない日常性を表現しても、中身がなければ人を魅了しない。

日常性を超越し、異常な脱日常の中に、人間存在の真意が潜んでいるのだ。

『嫋々たる美女』とは、美しい麗人の体つき・立ち居振る舞い・閨房の嬌声、すべてを包含する。

香道研究者の噺では、マッコウクジラから採れる龍涎香や麝香の妖艶な芳香を放つ女性が『嫋々たる美女』だったそうだ。


女が、肉体の悦びを一度覚えたら、なりふり構わずに、男から離れられなくなる。

男は、一度きりの射精で、女の生理機能がないので、回数、距離感を測り得ない。

どれくらい遠くまで、深い奈落まで絶頂したのだろう。女だけの既得権。


加齢とともに、男は、未練がましくジョボタレテ、孤独な世界で老いていく。

「男は生涯青春」? 男尊女卑時代の願望アフォリズムに過ぎなかったのだ。


性の悦びを体感した女たちは、老いてますます精力的な余生を全うする、という訳。

貧相脆弱なXY染色体が、不老長寿の強靭なXX染色体に敵うはずがない。

「柔よく剛を制す」 寿命の差、昔人は男女の差を見抜いていた。





00 故宫秘蔵の名画 「十二美人図」


 
 嫋嫋 裊裊 (じょうじょう)

 [ト・タル][文][形動タリ]


① なよなよとして風情のあるさま。しなやかなさま。たおやかなさま。 「 -たる柳」 「 -たる美女」
② 音や声が細く長く続くさま。 「余韻-として尽きない」 「曲は-として次第に興を増した/復活 魯庵」
③ 風がそよそよと吹くさま。 「薫風-として菜花(さいか)黄波を揚ぐ/花柳春話 純一郎」


 嫋々たる 類義語


意義素 容易に移動し曲がるさま

類語

柔靭 ・ 柔か ・ なよよか ・ 柔軟 ・ たおやか ・ 嫋嫋たる ・ 柔かい ・ 軟らかい ・ なよやか ・ 軟か ・ 柔らか ・ たわやか ・ 軟かい ・ 軟らか ・ なよらか



 谷崎潤一郎 「鍵」


谷崎のこの小説は「鍵」についてのくだくだしい言い訳から始まる。そのいいわけとは、56歳の大学教授が書いている日記のなかでなされる。その日記の中でこの老教授は、妻への色々な注文(それは主に45歳になる妻とのセックスに関することであるが)を書くのだが、それを是非妻に読んでほしいと思う。しかし自分から読むように勧めるのは気恥ずかしいので、妻が偶然この日記の存在に気づき、ひっそりと隠れて読むように仕向けたい。そのためには、とりあえずこの日記を鍵のかかるところに保存して、おいそれとは手にすることが出来ないようにしたうえで、その鍵が妻の手に、さも偶然に入るようにしなければならない、というような事情が、老教授が書き始めた日記の最初のページで、くだくだしく説明されるわけなのである。

老教授の期待に応えて、妻はその鍵を使って夫の日記を手にすることとなる。その日記を読んだ妻は、夫が自分との性生活に不満を持っていることに気づく。実はそうした不満は妻の方でも夫に対して抱いていたところなのであった。つまり、夫は妻との間でもっとエロチックで刺激的なセックスができるよう期待している一方、妻は妻で夫が勢力に乏しく、自分の性欲に十分応えてくれないことに不満を持っているのであった。ところがこういう期待や不満は、いくら夫婦でも面と向かっては言いにくい。そこで二人は、日記を通じてそれぞれの思いを相手に伝え、豊かなセックスを享受したい。そんな思惑から、疑似交換日記ともいうべきことを始めるのである。

しかし二人とも、表立っては相手の日記を読んでいない振りを通す。それでいながら、相手が自分の日記を読んでいることを前提に日記をつける。疑似交換日記という所以だ。そこから奇妙な展開が生まれる。そこがこの小説の最大の読みどころだ。

この疑似交換日記の最大の目的は、夫婦がお互いに協力して刺激的なセックスを楽しむことである。しかし、老教授の方は聊か性欲減退気味で、ちょっとやそこらでは性的な興奮が得られなくなっている。彼が性的に興奮するのは妻に強烈な嫉妬を感じる時なのだ。そこで老教授は妻に不倫めいたことをさせ、それによって強烈な嫉妬を味わい、その嫉妬の焔で自分の性的な興奮を高めようとする。妻は妻で夫の期待に応え、若い男との不倫を楽しむ。その若い男と言うのが実はこの夫婦の一人娘敏子の恋人なのだというから、話が非常にコングラがってくる。

夫の方は、大学ノートにカタカナでペン書きしている。それに対して妻の方は、雁皮紙に蚤のような筆字で書いている。雁皮紙を選んだのは、音がしにくいという理由からであった。やはり表向きは日記を書いているところを知られたくないということになっているわけだ。

さて夫は、軽い気持ちから妻を木村と言う若い男にくっつかせるのだが、それが効を奏して、夫は妻と木村に強い嫉妬を感じるようになり、それがもとで自分の性欲が異常に高まるのを覚える。夫は一方では妻の不倫を苦々しく思いながら、それが自分の性欲を高めさせてくれる限り、そのことに対して喜びを感じ、したがって妻に対しても、若い男に対しても、感謝するというような倒錯した感情を味わう。妻は妻で、夫が自分に対して感謝しているという事実を日記から読み取り、次第に大胆になる。夫と妻とのあいだのこうした関係は、サド・マゾ関係に類似したものを思わせる。

妻は最初のうちは、夫の期待に応えるために若い男といちゃつくふりをしていたのだが、したがって最後の一線は踏み越えずにいたのであるが、そのうちついにその一線を踏み越えたばかりか、娘の恋人であるこの若い男とねんごろな関係に落ち込んでしまう。そうなると、夫の存在が改めて問題になる。いまや夫とのセックスより若い男とのセックスにより強い喜びを見出した妻には、夫の存在が邪魔になってきたのである。

しかし妻にとって都合がいいことには、夫はハードなセックスがもとで体調を崩していまい、次第に危険な健康状態に陥っていく。そして二人がそれぞれ日記を書き始めてから3か月あまり立った頃、毎晩のようにセックスをしている最中に、夫は妻の腹の上で脳出血の発作を起こしてしまうのである。すぐに駆けつけてくれた医師は、夫が真っ裸の状態で倒れているのを見て、彼が妻の腹の上で発作をおこしたことをすぐに見破るのである。

夫が倒れたあとは、妻の日記だけが続く。その日記には、最初は夫に読まれることを依然警戒している様子が伺われるのだが、そのうち大胆になって、なんでもかんでもあけすけに書くようになる。そして、最初に倒れてから半月後に、夫が二回目の発作を起こして死んでしまった後で、自分と夫との奇妙な関係について、深い反省をめぐらすのである。

その反省とは一言でいえば、セックスの本当の喜びに目覚めた一人の女の開き直りのようなものである。自分には実は淫乱な傾向があり、セックスがしたくてたまらないくせに、いままで遠慮がちであったのは、父母によって授けられた封建的な道徳のなせるわざであった。ところが、夫の方でも刺激的なセックスに飢えていることがわかると、夫の期待に応えて刺激的なセックスをするのが恥ずかしいことではないと分かった。

恥ずかしいことどころか、それは夫の期待に対して妻が当然応じてしかるべきことなのだ。その夫の期待というのが、自分に嫉妬の感情を抱かせることだったとしても、それはおかしなことではない。「何よりも、夫を嫉妬せしめるように仕向けることが結局彼を喜ばせる所以であり、それが貞女の道に通じる」のであれば、胸を張ってしてもよいのだ、と女は開き直るのである。

しかし、若い男とセックスを重ねるうちに、夫の存在がうっとうしくなった、と女はまた開き直って言う。そこで何とか夫を亡き者にしようと考えるうちに、夫を腹上死させようと目論む。そこで日記の中で、自分の余命も短いというような嘘をつき、夫がますますセックスにのめり込むように仕掛け、彼の血圧を絶えず上昇させることに意を砕いた結果、ついに目論見が成功し、夫は自分の腹の上であえなく亡んだのであった。

こうしたことが妻の日記の最後の方で語られる。この小説は、夫の日記で始まったのであったが、それが妻の日記の、それも一方的な記述で終わるというのには、象徴的な意味合いを感じる。

夫は当初、妻に対して自分の性欲を満足させてほしいという気持を、子どもが母親にねだるような形で訴えていた。その訴えは弱者から強者への訴えである。だから屈折的にならざるを得なかった。その屈折した夫の思いに妻の方でも答えたのは、そうすることによって自分自身の性欲が満たされるからであった。二人は性欲の実現を巡って、秘かに共犯の関係を作り上げていく。その果てにあるのは、強者が弱者を飲みこみ、一方だけが生き残るということである。

このように、この小説では、サド・マゾの倒錯した関係が、二人の当事者によってそれぞれの立場から語られる。これ以前に谷崎が書いたマゾヒズムものは、単一の視点から描かれる場合が多かったのであるが、この小説ではそれが複眼的な展開になっている。その展開するありさまを「エロスの遊戯」に譬えることも出来よう。そこのところが、この小説の新しいところだ。
(Posted by 続壺齋閑話 )

 


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