余白の人生
「希言ハ自然ナリ」
インフェクション・シンドローム
他人と空間を共有すること自体が苦悩のはじまり
心の通う人のそばにいるだけでうれしくたのしい
空気感染症候群もいろいろあるんだなあ~
雄弁、能弁、多弁、詭弁 ことばはすべて虚し
老子の「希言は自然」がわかりやすい
寡黙な人が好かれるわけだ
「希言ハ自然ナリ」
ー老子 第二十三章ー
自然にはもの言わざる言葉が満ちあふれる。自然はもの言わずして、あらゆる真理をおのずからにして語りかける。人間はいろいろなあげつらいをし、さまざまな理屈をこね、しかつめらしい言い訳をしたり、恩着せがましいおどし文句を並べたりするが、自然は黙々として一言も語らず、ただひっそりと造化のはたらきを展開していく。
そのはたらきによって柳は緑に芽吹き、花は紅に咲き、鳥は空高くさえずるが、これが造化の真理だと言揚げすることもなく、自分の手柄だと吹聴することもない。しかも、そこではあらゆる真理が声なき声、言葉なき言葉で語られ、そのいとなみの功績は何物をも欺くことはない。老子はこのような無為自然の世界の言葉なき言葉を「希言」としてとらえ、その声なき声を「自然」だと説明する。
親の七光りは自然界には通用しない
人間社会は、親が立派(なにが?)であれば子もその七光りで生きていけるという錯覚・妄想がある。
ところが、親が立派であっても、子が努力をしなければやがて零落してしまう。
愛用のカメラを通して自然をよくよく観察しているとそのことが如実に見えてくる。
今日のネオイチ行脚は、接写(マクロ)で、日頃眼にしない自然の造形美に酔いしれた。
鳥の世界では、ツバメもカラスも尻尾がながいほうがもてると言う話を聞いたことがある。
顔より尻尾が長い方がイケメンというわけだ。
ほんとうにそうだろうか、疑わしい。体長が長いから大きくたくましく見えるだけだろう。
人間界では、足の長い男がメディアにもてはやされる。
そんな色男金と力は無かりけり、で政治家などついこの前まで短足で親の七光りばかりだ。
要するに、外見よりも生命力・包容力・実行力・稼ぐ力を発揮しているかどうかの問題だ。
中身も哲学もないマスコミのマヤカシ戦法に踊らされているだけだ。
人間以外の生物を、都合の良いいい加減な希望的観測で評価・判断するのはやめたほうがよい。
血統書付きのサラブレッドや犬は、ウィルスや病気に弱く短命である。
親の七光りの人間も同じことが言えるのではないだろうか。
どんな境遇にいても、親の愛情で、たくましく育てばたくましい人間になるのだ。
「曲則全」 老子 第二十二章
曲(きょく)なれば即ち全(まった)し
曲がりくねった木の様に役立たずであれば、生をまっとうできる。 尺とり虫の様に身を曲げておればこそ伸びる事も出来る。くぼ地の様にへこんでおれば、いろいろな物を溜める事が出来る。古着の様にボロボロであればこそ、新しくなる事が出来る。多くの物を持ち多くの事を求めると、悩み事には際限が無い。
だからこそ聖人はたった一つの「道」を守り、世の模範となっているのだ。自ら目立とうとはしないからこそ誰もが気づく、自らを肯定しないからこそ誰もが認める。自らを自慢する事が無いからこそ誰もが称える、自らを自慢する事が無いからこそ長く「道」を保てるのだ。
この大きな毛虫をカササギ(カチガラス)の夫婦が美味しそうにたいらげていた。
やはり自然は無駄がなくすばらしい。
そもそも人と争って何かを求めようとしないので、決して誰にも敗れる事が無い。昔の人が言う「曲がりくねった木の様に役立たずであれば、生をまっとうできる。」とは真実である。そうしてこそ生をまっとうし、根源に帰る事が出来るのだ。
美味しい井戸水は、人々が群がりやがて枯渇してしまう。
美しい花畑や観光地は、大勢の人が押し寄せ、やがて飽きられ荒らされて人が寄りつかなくなる。
だれも見向きもしないような雑草は、目先の利益で邪魔されることが無く天命を全うできるというわけだ。
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