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文学・芸術

悪魔と善魔 サマセット・モーム「雨」

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 悪魔と善魔 


 サマセット・モーム「雨」





 朝方にかけて、南洋のスコールのような大雨が降った。台風並みの暴風を伴って。

 半世紀ぶりに、サマセット・モーム『雨・赤毛』(中野好夫訳、新潮文庫刊)を読んでみた。余韻が冷めないうちに、簡単にでも書評を書いておきたい。わたしの大好きな短編のひとつであるから。

 雨。はるか南海の島に降る雨季の雨は、梅雨の雨とはまるで違う雨だろう。島は折から雨期、太鼓でも鳴らすように激しく屋根にたたきつけ、滝のように視界を奪うスコールが連日続いていた。シトシトと降る、やるせない雨、それでも雨脚が弱まる時がないわけではないし、合間には日差しに恵まれないこともない。
 
 が、熱帯の地の雨は容赦なく降る。鬱陶しいとか、うんざりという気分どころか、精神を圧倒する雨。南の雨は命を育む雨。いや、育むというより命が噴き出す雨なのである。今の時代とは違い、ろくに空調施設も整うわけもなく、窓を締め切るわけには到底、いかない。雨の音は屋根の透き間から、開いた窓から、襲い掛かるように聞こえてくる。

 神経を直撃する雨音の激しさ。からみつくようなねっとりした湿気、おかしくなるような熱帯の雨が終始、背景になっている。

 ヨーロッパ人には、堪え難いものがあったに違いない。

 強烈な精神、信念、論理、言語、明確な輪郭。そうしたものとは無縁な世界。
虫けらにしろ、雨にしろ、湿気にしろ、分厚い石の壁や屋根と、ぴっちり締め切られた窓やドアで、外界を一切遮断できる、そんな割り切る論理など、通用しないのだ。曖昧な光と影の境目、拭いても拭いても滲み出る汗と脂。ウジの湧くように命が芽吹く。そして欲望。肉の衝動。雨と暑さで押し拉がれているはずなのに、気がつけばムラムラと本能の衝動が精神の内側から、信念と論理の固い殻をぶち破って噴き出してくる。

 過剰な暑さは精神を圧倒する。精神の働きを鈍らせる。ともすれば精神が眠りに付こうとする。だからこそ食べ物でも強烈な辛さを求め、絶えざる太鼓の音で、精神のリズムを外部から目覚めさせ活性化させ、命の鼓動で本能を、命を燃え上がらせ、雨にも湿気にも暑さにも怠惰にも負けまいとする。

 宗教的信念や強固な階層性を前提とする道徳は、雨と湿気に簡単には負けないのだろう。負けたくもないのだろう。折々に訪れる船を通じてはるかに遠いヨーロッパの香りを嗅ぐ。聖書を読む。叩き込まれた道徳観念を日々に蘇らせる。

 裸で歩き回り、情動を揺り動かすドラムの音楽を友とし、現地の人たちからしたら、現地の人でなければ分からない論理に従って男女の関係を保っているのだろうが、外部の人間には理解し難くて、性の道徳が乱れているとしか思えなかったりする。



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 まさに邪悪がこの世界を支配しているように思われてならないのだ。

 悪は一掃されなければならない。光と影の輪郭を際立たせ、善と悪の境界を鋭く容赦なく描き、やがては悪を闇を影を善が光が凌駕しなければならない。善の在り方は一つしかなく、善の多様な在り方など論外なのである。尺度は一つあれば十分なのだ。

 文明の尺度からしたら、野蛮で未開で非合理に満ちた世界。だけど、その世界に浸り闇や影の中の豊かさを感じ、その多様性を見分けられるようになれば、実は最初は闇一色でしかなかった世界が実に豊穣な世界なのだと分かる。
 その世界なりに秩序が長く保たれてきたのだと分かるはずなのである。仮に分からなくたって、干渉する謂れなどない、はずなのだが。

 夜の商売に生きる女。娼婦は邪悪の象徴と、善の虜になっている宣教師には映る。そんな存在と共生などできるはずがない。聖書の、というより、教会の論理からしたら、肉欲を商売の種にするなど、許せるはずがないのである。そもそも、肉欲に駆られるということ自体が、慮外の不始末であって、善魔の化身である宣教師は、肉欲の象徴である女を、その女の悲しい都合など一切お構いなしに善の世界へ、つまり光だけの世界へ引きずり込まなければならない。

 宣教師の島での影響力には敵わない女は、宣教師に白旗を上げる。他の誰彼にも助けを求める。しかし、宣教師の固い信念は揺るがない。島から追い出される前日も、女のもとへ説教をしにいった宣教師は、雨に負ける。体の芯から腐るような凄まじい湿気に信念が根っこから腐敗してしまうのだ。濃い緑と肥沃な大地と豊かな命の源である海と天の恵である雨とに穿たれる。

 商売女とは、善魔には悪の象徴かもしれないが、命が際限もなく芽吹く南の島にあっては、それは命の営みそのものなのだ。ヨーロッパの頑なな論理からしたら邪悪な本性の誘惑なのかもしれないが、野生の思考、あるいは生命の論理からしたら男が女を、女が男を、南の海の道徳体系の枠組みの中からは食み出さない限りにおいて、互いに求め合うのは、自然な姿そのものなのである。

 ところで、女は一体、男を宣教師を最初から誑かすつもりだったのだろうか。それとも最初は本心から宣教師に助けを求めていたのだろうか。あるいは最初は本心からだったのが、途中で、もう、最後の手段だと宣教師を誑かすことに決めたのだろうか。

 あるいは、最後の最後の土壇場になって女は宣教師を誘惑したのだろうか。
 そもそも女が宣教師を(仮に土壇場であっても)誘惑したというのは、一方的だと考える。女は、心底から改心を願い、宣教師に救いを求めた可能性があるのだと思う。その魂の救済のラストシーンになって、宣教師の足元に敬虔に跪く女の姿に打たれ、宣教師は男になってしまったのだ。

 女は恐らく、それまでさんざん、そんな善意の人の土壇場になって裏切る姿を見せ付けられてきたのだろう。女を泥沼から助けてやると甘い言葉を懸けられ、それが時には男の側の本心であった場合でさえ、いざとなると怖気付き、男の世界に逃げ帰ってしまう。そして女は、細い蜘蛛の糸を断ち切られて、崖っ淵から奈落の底に叩き落されてきたのだ。恐らくは幾人もの男達に。

 原住民と文明人の対比という構図があからさまなだけに今となっては不快な念も覚えないではない。野生の思考という発想も、いかにも<文明人>という思い込みのあるヨーロッパ的な嫌味を感じる。
 闇はどこにでもある。白夜の地の北欧だろうが、熱帯のジャングルだろうが。闇や影は誰だろうと、なしでは生きられないものなのだ。

 「雨」の末尾に、「一切がはっきりしたのだ」というくだりがある。その一切とはなんだろう。女がいつから、宣教師を垂らし込むための演技をし始めたのか、あるいは宣教師が道を踏み外したのか、その点が小説では曖昧なままなのに、どうして、「一切がはっきりしたのだ」と言えるのか。

 はっきりしたのは、土壇場になって宣教師が欲望に負けたこと、口では立派なことを言っていても、最後は娼婦である女に他の多くの男達と同じ振る舞いに及んだこと、その一点だけなのだと考える。
 あとは曖昧なままなのだし、それでいいのだと思う。そこまでは宣教師と女の二人の世界のことで、誰にも垣間見ることはできないはずなのだ。

 最悪の、しかし、ありがちなことを考えれば、宣教師は女の弱い立場を知り尽くして最初から女を誑し込むつもりだったのかもしれない。そして、最初は聖書の教えに従うようにと言い、俺に従えばいいようにしてやると言い、それでも女は従わなかったので、女がいよいよ島を追い出される前日になって力付くで女を押し倒した。表向きは汚れから無縁なようで裏では闇の社会と繋がっている、そんな姿を宣教師はさんざん見てきたのだろう。

 そして、そんな汚れた教会の裏側を毛嫌いしていたのに、今度は自分のほうが欲望に駆られた姿に絶望したのかもしれない。そんな穿った見方さえ、絶対に入り込む余地がないとは言えない。

 解釈の余地を読者にたっぷり残している。結末が分かっていても読むに耐える。それが名作の名作たる所以なのだろう。ストーリーテラーたらんとしたモームの最高傑作がストーリーより叙述の見事さの際立つ「雨」だというのは、モームにとって皮肉なのかもしれない。

 人間は理性と本能の間で揺れ動く存在だ。宣教師も娼婦も、外面的なものこそ違え、人間的本性といった点では、それほど変わる所は無い。モームはこの小説の中で、聖職者と娼婦という極端な存在を対比させながら、最後の宣教師の人間的破綻を描き出すことによって、人間の本質、弱さ、そしてその弱さを許す心の必要性を訴えているのではないのだろうか。


 最後に、モームが座右の銘としていた言葉を思い出した。

「神が人間を創ったと認めてもよい。それならなおのこと、なぜ神の前にひざまずかなければならない。
 人間創造などくだらぬことをやらかした神の前に・・・」




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