余白の人生
蟪蛄春秋を知らず

借用文化の功罪
中国の故事に、
「蟪蛄(けいこ)春秋を知らず、伊虫(いちゅう)あに朱陽(しゅよう)の節を知らんや」
という言葉があります。
「蟪蛄」とはひぐらし蝉のこと。
「伊虫」とはこの虫という意味。
「朱陽の節」は夏のこと。
「セミは春や秋を知らない。だから、この虫は夏ということも知らないだろう。」
ただ春夏秋冬を知っているニンゲンが、セミが鳴くのは夏だというだけである。
セミは短命です。わずか二週間ほどのいのちです。
夏の間の虫ですから勿論四季は知りません。
ということは、夏という事も知らないのです。
人間は四季を感じ、見る事ができます。
だからいのちの歴史を知り、どう今を生きたら良いかを考え、
いのちのゆくえを尋ねる事ができるのです。
地球上の生物は、180万種といわれています。その中で人間だけがバトンタッチされたこのいのちの深さを知り、いのちの尊さに気づくのです。
かつて日本人は、万葉の昔から情景の深さや風のゆらぎや聞こえる声に耳を傾け、十七文字や三十一文字にその想いを詠みこみ、真理を探究しました。
形無きものに本質を見、見えないものにこそ真理を感じていく心は、日本人独自のゆたかな感性によって培われてきたのです。
外国人にはない日本人の誇りです。
★ ★ ★

中国古典を剽窃(パクリ)した、このすり替え・刷り込み手法が、大和民族優位主義を助長し確立させてしまった。
西洋文化における、白人優位主義、ヒトラードイツ純粋民族主義と同じことである。
この譬え(たとえ)は、親鸞聖人が教行信証の「信巻」で、≪『観無量寿経(かんむりょうじゅきょう)』に十声(とこえ)の念仏を説かれているのは、これによって浄土に往生することが決定(けつじょう)することを明かしているのであって、必ずしも、その念仏の数を知らなければならないということではない。≫という譬えで出されている。
このように日本人の「生」に対する「無常観、儚さ、かそけさ」を日常生活や宗教の中に取り込み根付いてきた感性は、それはそれですばらしいことである。長い間大陸から隔離され孤立した島国の気候風土のなせる技とも言えよう。
ところが、無常観や比較寿命論にすぐ結びつけなくても、そのまま素直に解釈するほうが無理がない。
出典は、過去の教養人たちが中国古典をパクリ、お手本にした中国の故事に基づいているのである。
朝菌不知晦朔、蟪蛄不知春秋 (朝菌は晦朔を知らず。蟪蛄は春秋を知らず。) 荘子 逍遙遊篇
朝菌は朝から暮れまでのいのちで、夜と明け方を知らず、夏に生まれ夏を鳴きあかしている蝉は季節を知らないのであるから、どうして夏が夏であることを知りえようか。
(日本人とて同じことだ。極東の・・東の果てさえ知らなかった・・狭い島国に棲んで、中国・西洋や世界のことを知らなかったのだから、どうして世界の流れや地理・気候が異なることを知りえようか。)
生きとし生けるもの、生き物の寿命は、朝菌カゲロウの一日、蟪蛄ヒグラシの2週間、人間の70年。
悠久で壮大な大自然の営みから観たら、なにもかわることはないのである。
取り立てて、ニンゲンだけを特別扱いするような捉え方・解釈では、老荘思想や自然の摂理に近づけない。
「カワセミに 捕られし魚ウオを たらも知らず 在りたることも 失せたることも 」
悠久の時空の流れの中で、蟪蛄もニンゲンも、なんらかわることはない。
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