教育評論

個性の一人歩き

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 個性の一人歩き


戦後、我々は「自分らしく生きなさい」、「個性を持って生きなさい」等と、何の根拠も無いまま、あたかもそれが新しい社会人であるとでもいうように教えられてきた。そして私たちは「自分」とか「個性」とかが何というものであるかも理解せぬまま生きてきたのである。

ましてや、「個性」などというものは大衆というもののなかで、他人と異なろうという作為であり、自らのものではなかった。

本来「個性」なんて自分の言葉から発せられるものでもなく、他人を通してのみ個性という目があるはずである。他人がどうであれ、自分かこのようにしか出来ないものが個性であり、しかし、本人にとってはこれということしか出来ないことをやってるだけだから、自らは個性と思うはずもない。思うのは他人であろう。なるほど、あの人はああとしか出来ない人だから、あれがあの人の個性だなぁ~。という表現には当てはまっている。

「自分らしく」といわれても「自分が解らない」。世間ではよく「自分探し」などという若者がいるが・・・。でも自分というものは解らないのではなくて、自分というものは無い!のだと一度思い知るべきである。そして若者にもそう教えるべきではないだろうか。

そして、自分が解らないのだから、自分に合った仕事とか、自分にふさわしい生き方とか、自分にみあった趣味などはないわけで、あくまで自分らしくと云うのなら永遠に見つかりはしないであろう。

自分というものがあると思うから人はいつまでもそうしたものを探し回ることとなる。人はいつまでも生きていると思うからいつまでも迷うのではないか。今という時間にいるものこそがすべてであると思うなら迷ったり、選択するよちはないのだが。

戦後民主主義というものは個性とか、生命の尊重と教えられてきた。だから生きることは素晴らしとも教えられるのであるが、でも人間は必ず死ぬから、生きることとは死ぬことでもあるとは教えないのである。

あえて云うと、自分を知りたかったら自分を人間という型に一度閉じ込めることであろう、窮屈だろうが生き辛いだろうがそうした型が必要なのである。与えられた仕事を文句一つ言わずにこなす。例えばそうした型に入れてみるというのも自分を知ることということにつながるのである。

捏造された「個性という虚像」は、自分を閉じ込めておく甘き迷夢で、いつまでも自己確立ができないピーターパン・シンドローム(症候群)の大きな要因となっている。加えて、現実逃避・自己逃避を助長する心地よい隠れ蓑ともなっている。

ただ、個性の一人歩きがなければ、人間は生きていけない、ことも侮れない事実であろう。他者と自分を乖離するか、自分と他者を融合させるか、そのタイミングが至難の業である。

 


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