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選べない「死に方」

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2016 神居古潭石 緑雨 横幅:約8cm 奥行き:約3cm 高さ:約9cm 42.000end




 自分で選べない「死に方」


人の死には四つしかないという、自殺、他殺、病死、事故死である。生きている人間の死に方は必ずどれかに分類されるというのである。戦死は他殺であり、情死などは自殺というのである。殉死や客死はそのどちらかで、老衰というのは生体低下レベルという意味では病死となるそうだ。

我々は時に、あんな死に方がいい。こんな死に方は嫌だとか思う。それでも思いに関係なくこの四つの死に方しかできない、その四つの死という言葉には多少の抵抗があろうとも、どうしようもなく死ぬ。

こんな風に死にたいとう願いは、実は死に方の願望ではなく、どのように生きるかという願望ではないだろうか?何故こんな死に方をするのかと理不尽に思うことになるのも、生きたことのあくまで結果でしかないことを無視した考え方であると思うのだ。
ただ人は時として、他殺は嫌だ、事故死は嫌だというが、であるなら戦争は嫌だ!社会の倫理やルールは守ろう!ということにならないのがおかしなことである。

ここにきて自然死という言葉があると知った。ある人が野や畑で死んでいた。その人が老人であるならなおさらである。そういう場所でそういう死に方だからそういう分類になったであろうが、もし、病院に運ばれて医者にかかったていたら急性心不全などと呼ばれることになり、病死となる。それを考えると、死という自然現象を自然のものになくしているのは人間ではないか。
それでも、もし自然死という死に方が可能ならそれもいいなあと憧れる人は多いと思う。でも生きることを自然というなら、死も自然である。

現代は自然死がいい、病院では死にたくはないなどと、大往生を願い、老衰に憧れながらもサプリメントを飲み、ジムで運動し、公園をジョギングする、アンチエイジングなるものに励むのは不自然ではないか?
それでもアンチエイジングは生き方の問題ととらえられないこともないではないが、結果的にはいずれ死の問題となるのである。

そして「死に方」で分類すると四つであるが「死」そのものは一つでしかない。生きているものは必ず死ぬ、寿命の長短も状況も様々も関係なくどんな死に方であれ、要するに死ぬということである。それを了解すると死に方なんてものは成り行きであるともいえる。

実際、成り行きでしかありえないのである。四つのうち自らが選べるのは自殺だけという事実を考えると、あとの三つは自らが選べることもなく自分の意思が働かない。死という人生において最重要事が自分の意思ではないのなら、人生を生きるということ自体どうして自分の意思でなんかあるものか。

自殺する者が幸福だとは言わないであろう。自分の意思がないから不幸かといえばあながちそうでももなく、すべて成り行きまかせな人生、そういう生き方、つまり死に方が一番幸福かもしれない。

畢竟、自分の誕生と死に方は自己選択できない。残念なことに、自己責任、自己選択、自己決定ができない運命の領域に委ねることになる。単純に云えば「なるようにしかならない」諦観の世界である。そう思って、人は気楽に生きるしかない。




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