雑学曼陀羅

項羽と虞美人

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『虞美人草』




 項羽と虞美人


 曾鞏の詩 『虞美人草』 は、項羽と虞美人の悲劇的な最期を詠った詩である。

 鴻門の玉斗 紛として雪の如し
 十万の降兵 夜血を流す
 咸陽 宮殿 三月紅なり
 覇業は已に 煙塵に随って滅す
 剛強なるは必ず死し仁義なるは王たり
 陰陵に道を失せしは天の亡ぼすに非ず

  
 詩は楚の項羽と漢の劉邦との”鴻門の会”から始まる。この会談のとき楚の范増は劉邦を殺そうとしたが、項羽が劉邦の策略にだまされて彼を許したために旨く逃げられてしまった。范増はくやしさのあまり、劉邦から贈られた玉斗(玉でつくられた酒器)を地上に投げ捨て、雪のように粉々に打ち砕いた。

 ”鴻門の会”の後、項羽は兵を率いて咸陽に入り既に降伏していた秦の最後の王 子嬰を殺し、宮殿を焼き払い、財宝を奪い、そして降兵10万人を穴埋めにして殺してしまった。
 咸陽宮殿の紅蓮の焔は三か月も燃え続けたが、その煙塵と共に項羽の覇業もすでに滅んでしまったというべきである。

 剛強の士は必ず死に、仁義の士が王となる。
項羽が垓下の戦いに敗れて逃げのびるとき、陰陵で道に迷ったのは自ら滅亡を招いたのであって、天が滅ぼしたのではない。

 英雄 本学ぶ 万人の敵
 何ぞ用いん 屑屑として 紅粧を悲しむを
 三軍散じ尽きて 旌旗倒れ
 玉帳の佳人 座中に老ゆ
 香魂 夜 剣光を逐うて飛び
 青血 化して 原上の草と為る
 芳心 寂寞として 寒枝に寄せ
 旧曲聞き来たりて 眉を斂むるに似たり
 哀怨 徘徊 愁いて 語らず
 恰も初めて楚歌を聴きし時の如し 

 万人の敵を相手とする兵法を学んだ筈の英雄が、どうして一人の紅粧の美人のことを、くよくよと思い悲しむのか。
 大軍は散りつくし、旌旗は地上に倒れ、玉帳の美人はやつれ果て、その魂は暗夜に剣のきらめきを追うかの如く飛び去ってしまった。そして彼女のなきがらから流れ出た血は野の草に化身した。

 美人の魂はわびしく冬枯れの枝に寄りかかり、項羽と唱和した垓下の歌を耳にして眉をひそめるかのように悲しみにくれ、怨みを抱きながら声も無く さまよっている。そのさまは彼女がはじめて四面楚歌の声を聴いたときに似ている。
 
   滔滔たる逝水 今古に流る
   漢楚の興亡 両ながら丘土
   当年の遺事 久しく空と成る
   尊前に慷慨して 誰が為にか舞わん

 滔滔たる大河の水は、昔も今も変わりなく流れているが、戦いに勝利した漢も負けた楚も、今はともに丘の土となり、往年の事跡はすべて空しい。
 弔いに供えた酒樽の前で、憤り歎くかのように舞う虞美人草よ、お前はいったい誰のために舞っているのか。

 曾鞏が唐宋八大家のひとりでありながら王安石や蘇軾のように詩人としてはそれほど高名でないためか、この詩についての解説は意外に少ない。「漢詩大系ー宋詩選」にも載っていない。

 鴻門の会をきっかけにして、項羽は坂道を転げ落ちるように破滅へ向かう。その過程については史記をはじめ多くの歴史書や小説が、色あざやかな物語を私たちに提供してくれる。

 項羽を絶望に陥れた”四面楚歌”、これまで単に項羽の故郷の楚の歌としか考えていなかったのに、作家の藤水名子は「虞花落英」で、この楚歌がかの有名な屈原の『離騒』だったという。 屈原すなわち楚の屈平は、絶望の末に汨羅に身を投じた。

 『離騒』は別離の愁いを詠った詩である。
 国には私を理解するものは一人とてなく、この上は何ゆえ故郷を懐かしむことがあろうかと詠う。この歌声が四面から響き渡ってきたとき項羽は「天亡我!天の我を亡ぼすなり」と低く呻いた。戦う意欲は既に全身から消えていた。
 
 その夜、項羽は城内で別れの宴を開き、杯をかたむけながら自ら詠いだした。

    力は山を抜き 気は世を蓋う
    時に利あらず 騅逝かず
    騅の逝かざる 奈何すべき
    虞や虞や 若を奈何せん

 この歌までは史記にも書かれている。しかしこの後 何が起こったのか!ある人は云う、虞美人が項羽の剣を持って舞いながら、一気に喉を貫いたと。別の人は云う、いや項羽が虞美人をわが胸に抱いて刺したのだと。
 京劇の『覇王別姫』はもちろん自害説である。

 虞美人の返歌は『楚漢春秋』に出てくるが、後世の作だという説もある。

    漢兵すでに地を略し 
    四方 楚の歌声す
    大王意気尽く
    賎妾何ぞ生をやすんぜん

 翌早朝、項羽は手勢800騎を率いて漢軍の包囲を突破して逃げる。その途中陰陵というところで道に迷う。そこまでは季布も一緒だった。 季布、あの魏徴の『述懐』に二諾無しと書かれた信義の人である。

 季布は将軍として項羽を支えた。しかし陰陵で項羽の軍はばらばらになってしまい、季布もまた倒れていたところを村人に助けられる。そしてゆくゆくは劉邦の部下として名声を上げていくのである。 

 項羽が烏江にたどり着いた時、手勢は僅か26人だった。渡し守から舟で長江を渡って逃げ、捲土重来を期すよう勧められたが、江東の父兄に何の面目あって帰られようかと断り、追って来た漢軍の中に切り込んで自刎したのである。

 後世、杜牧は『烏江亭に題す』を詠んだ。

     勝敗は 兵家も事期せず
     羞を包み 恥を忍ぶは 是れ男児
     江東の子弟 才俊多し
     捲土重来 未だ知るべからず

 これに対して王安石は『和題烏江亭』として次の詩を詠み杜牧の意見に反対した。

     百戦疲労し 壮士衰う
     中原の一敗 勢い回らし難し
     江東の子弟 今在りと雖も
     肯えて君王のために土を巻いて来たらんや

 項羽と虞美人、今にいたるも漢詩ファンの興味は尽きない。



  
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