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花開蝶来 良寛

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朝鮮民画「花鳥図-宮廷画家も描いた上手編」3



  良寛と量子力学 
 

 良寛には若いころから激しい無常感があった。「無常 信(まこと)に迅速 刹那刹那に移る」の詩句もある。良寛はどんな片々(へんぺん)の動向にも「永遠と瞬時の交代」を見た。

 特筆すべきは、無常の速さをどこで観るかということである。

 しかし、その無常迅速・無常旋転を、どこで見るか。外ではない。中でもない。すれすれに無常の活動とともに、見る。そこが良寛だったのである。
 そういうことを如実に言葉にしている漢詩も少なくない。2行ずつ、別々の漢詩から採って任意にならべてみる。

   一路 万木の裏(うち)
   千山 沓霞(ようあい)の間

   過去は已に過ぎ去れ 未来は尚未だ来らず
   現在 復(また)住(とど)まらず 展転 相依るなし

   去る時 是れより去り
   来る時 是れわり来る

   三界は客舎の如く 
   人命は朝露に似たり

   一朝分飛の後
   消息 両(ふたりながら)茫々たり

   人生 浮世の間
   忽として陌上(はくじょう)の塵の如し

 いずれも全と一、瞬時と永遠、本来と将来とがあっというまに交差する。その行き来、そのすれちがい、その往還と反転とに、良寛の目は動き、良寛の手が動く。刹那と無限を捕捉えて決して離さない。

 日本人は、宗教として、人の世の「はかなさ・無常観」と片づけて(解釈して)きたが、現在のイシコロの感想は少々異なる。

 物理学の先端を行く量子力学の世界では、「全と一、瞬時と永遠、本来と将来」について、多くの科学者がこの命題に取り組んでいる。

 先に挙げた「宇宙ホログラフィ理論」が、全体=部分(一)、刹那=永遠、を科学的に証明しようとしている。
 良寛も空海も、目に見えない高次元世界の膨大な智慧をすでに獲得していた、と思わざるを得ない表現である。

 以前にも、シリーズでブログアップしたが、私が敬愛してやまない越後の名僧、良寛について、少し書いてみたい。

 良寛は、江戸時代末期に誕生した禅僧である。しかし、生涯にわたって寺をもつことも弟子をもつこともなく、ただ越後(新潟)の田舎でただひとり、托鉢で生計をたてながら、村人と交流を重ねて一生を終えた。

  数々のすぐれた書や歌を残し、また、天真爛漫なエピソードが数々残されている。子供と遊ぶのが好きで、一般には「良寛さん」などと親しく呼ばれている。

 しかし、私が思うに、良寛ほど高い悟りと霊性を体現した僧はまれであり、本来なら「良寛さん」などと気安く呼べるような人ではなかった。まさに比類なき名僧の中の名僧なのである。

 良寛は、名主の御曹司として生まれ、長男だったので後を継ぐはずであった。しかしあまりにも生真面目で純粋で気弱な性格だったため、政治的なかけひきが苦手で、一時期、名主の見習いをしていたたものの、すぐに挫折。結局、18歳で寺に出家することになる。そして22歳のとき、当時、高僧として知られていた国仙和尚の弟子となり、はるばる岡山の寺までいって修行を始めることになる。

 これは、当時の仏教界では大変な名誉らしく、今日でいえば、ハーバード大学やオックスフォード大学に留学するくらい、すごいことだったようだ。おそらく、家族は、いつか修行を終え、大僧正にでもなって華々しく帰郷することを期待していたに違いない。

 さて、良寛はこの国仙和尚のもとで十数年ほど修行し、師匠から印可(卒業証書)をもらうと、寺を出てしばらく放浪の生活をしたようだ。

 そして、ついに故郷である越後の国に帰ってきた。
 ところが、すでに実家は衰退の一途をたどった末に没落。母親は48歳の若さで病死、その12年後に父親は川に飛び込んで自殺、細々と弟が家を継いでいるといったありさまだった。

 かたや良寛の方も、出世したわけでもなく、着ているものはボロボロで乞食同然、歳も40歳になろうとしていた。まったくの落ちぶれた、ひとりの孤独な雲水(旅をしながら修行する僧)でしかなかった。

 さすがの良寛も、こんなみじめな姿を弟に見せられず、実家の近くを通ったものの、顔も見せず素通りしてしまった。そしてふらふらと浜辺に足を向けた。寝る場所さえなかったので、漁師にお願いして物置に泊めさせてもらうことになった。ふとんもなければ、すきま風が吹き込んで来るような、わびしくて寒い物置であった。

 良寛の伝記を読み返すたびに、私はこのときの様子に感銘を覚える。
 世間一般的な価値観からすれば、良寛はまさに「落ちぶれ者」であり、今日の言葉を借りれば、「負け組」であった。僧侶として成功し故郷に錦を飾って凱旋するどころか、乞食同然の境遇で帰ってきたのだ。名声も、お金も、家族も、なにもない、みじめな姿そのものになって。しかも歳は40歳。今日の社会からすれば、まだ若い年齢だが、当時の40歳は、今の感覚なら60歳くらいかもしれない。

 そんな良寛が、ひとり漁師の物置小屋で一晩をあかした。そのときの気持ちは、いかなるものだったのかと思う。聞こえるのは、寄せては返す波の音ばかり。凡人の感覚なら、これほどの屈辱、これほどのわびしさ、これほどの孤独、これほどの絶望に、とても耐えてはいけないのではないかと……。

 けれども、こんなにも崖っぷちの暗闇の時期が、歴史を経て良寛の人生の全体像を知る現代の私たちの目から見れば、まさにこのときこそが、偉大なる良寛の、その真の人生の始まり、その輝かしい業績の誕生の瞬間であったことがわかる。寄せては返す波の音は、輝かしい勝利のファンファーレである。「負け組」どころではなく、実は最高の「勝ち組」だったことがわかる。

 もしも良寛が出世して、大僧正などと呼ばれて、金ぴかの袈裟をぶら下げて故郷に帰ってきたならば、その地方の人にだけは多少は名が知られたかもしれないが、すぐに忘れ去られ、歴史に残ることもなく、私たちを励ましてくれるような人には成り得なかったであろう。

 良寛の生い立ちのなかで、もっとも暗いこの場面こそが、まさにこれからすばらしいことが始まる夜明け前の暗闇であったことがわかる。そう思うと、まったく人生というものはわからないものである。

 その後、良寛は弟に発見され、閑静な場所に小さな小屋を建ててもらって住むようになる。
 そうして、内に輝くものを宿す人は、やはり自然にその存在は認められるものである。その徳と学識の高さを慕って、当時の有名な学者や文化人が良寛のもとをに訪れた。

 それでも結局、良寛は死ぬまで自分の寺ももたず、弟子ももたず、説教のようなこともせず、子供と遊び、村人と共に泣いたり笑ったりしながら、見事な書や歌を残して、74歳でその生涯を閉じた。

 多くの参列者がかけつけ、実家から火葬場に列を作って向かったが、先頭が火葬場へ着いても、その後尾はまだ、実家の庭先にいたという。参列者の数で、生前の人徳を測ることはできないが、それだけ多くの人々から愛され慕われていたことは確かである。

 良寛は、私が最終的にたどりつきたい心の故郷であり(まずありえないことであるが)、これほど深い思いで敬意と思慕を寄せる人はいない。あたかも「花と蝶」の間柄のように。


  花無心招蝶 蝶無心尋花
  花開時蝶来 蝶来時花開
  吾亦不知人 人亦不知吾
  不知従帝則  

  「花は無心に蝶を招き 蝶は無心に花を尋ねる
  花開く時蝶が来て 蝶が来る時花が開く
  吾も亦(また)人を知らず 人も亦吾を知らず
  知らずとも互いに 帝則(真理の摂理)に従っている」



  
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