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生殺与奪権

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 自分を生かすも殺すも自分


これまで、生殺与奪権は自分以外のナニモノかにあると思ってきた。

ナニモノとは、運命や天命であったり、自分より強力な他者、であったりした。
ところが、歳を重ねるにつれて、そうではないことに気づくようになった。
これまでの自分の来し方をふり返ると、決して偶然ではなく、必然であることに至るからである。

必然的に生じた出来事を、きちんと解析する努力もしなかった。
偶然出くわした不幸・不運、或は幸運や他者のせいにしてきたからである。

生老病死も自分から生じた必然などと考えてみる余裕すらなかった。
ところが、自分を生かすも殺すも、所詮は自分でしかなかったのだ。
願望という幻想・迷妄、意識の奴隷というこころの虜に支配されていただけのことだ。


若いときから芸能人や芸能界には、一部を除いてはほとんで興味が湧かなかった。

それほどストイックな人間でもないのに、おそらく娯楽番組を楽しむ余裕が無かったのだろう。
おそらく、自分が共感する文学、芸術、音楽、趣味・関心ばかりが先行したためであろう。
そのせいか、幅広い視野をなくした狭量で頑固な人間になってしまったと認めざるを得ない。

先日、ある番組で、阿久悠の自伝を放映していた。

ニューミュージックの台頭で、これまでの作詞家生活が苦境に立たされたとき、
「阿久悠を殺すのは、阿久悠自身である」と言い放って、起死回生、捲土重来を決意する。

「自分をダメにするのは、時代でもなければ他者でもない、現状から脱却する意欲をなくした自分自身なのだ。
自分の不運や不幸を、現代社会や他人の責任に転嫁して這い上がろうとする意志をなくした弱い自分なのだ。
こんなことをしている人間には、チャンスは生涯訪れない。」 そう自分に言い聞かせて、再起する。

そう言えば、以前、校長時代に野球部の甲子園県代表出場が決まったとき、阿久悠の激励メッセージが学校に届いたのを思い出した。歓びで学校中が沸きかえっていたのであまり気に留めなかったが、今にして思えば、彼の情熱と心遣いに頭が下がる。

「ナニゴトも、自分にはじまり自分に終わる」

当時、ロンドン留学中、ホームシックや痔の病でノイローゼになっていた夏目漱石に、同郷の詩人・正岡子規が贈った激励文の一節である。

阿久悠の言葉を聞いて、ふと思い出した。



 阿久 悠

(あく ゆう、1937年2月7日 - 2007年8月1日)は、日本の放送作家、詩人、作詞家、小説家。本名、深田 公之(ふかだ ひろゆき)。淡路島(兵庫県津名郡鮎原村、現在の洲本市五色町鮎原)出身。第2回横溝正史ミステリ大賞、第45回菊池寛賞受賞。紫綬褒章、旭日小綬章受章。

阿久悠のペンネームの由来は「悪友」から。また、多夢星人(たむせいじん)の変名も使用した(阿久の小説『グッドバイ―BN童子の青春』の登場人物であるロック歌手の名に由来する)。長男は作曲家の深田太郎。

両親とも宮崎県の出身。幼少期は兵庫県警巡査であった父親の仕事の都合で、いずれも津名郡内であるが、数年おきに転居を繰り返す。兵庫県立洲本高等学校卒業、明治大学文学部卒業。両親は父の定年退職と同時に宮崎に戻ったという。

広告代理店・宣弘社でコピーライター・CM制作を手がけながら、1964年(昭和39年)から放送作家としても活動。1966年(昭和41年)に宣弘社を退職し、放送作家、作詞家としての活動を本格化させる。音楽番組の台本を書いているとき、歌われる歌の歌詞を写しながら、作詞の勉強をした。

その後、作詞家として数々のヒット曲を送り出す。生涯、作詞した曲は5,000曲以上。ジャンルは歌謡曲、演歌、アイドル歌謡曲、フォークソング、コミックソング、アニメソング、CMソングと幅広い。日本テレビのオーディション番組 『スター誕生!』に番組企画・審査員としてかかわる。『スター誕生!』の特徴的な企画は各芸能プロダクションの担当者が目に付いた出場者に札を挙げるというものであった。

このスタイルを考えたのは阿久自身である。「密室でタレントを選考する過程を全てガラス張りにして芸能界を裸にしよう」と提案した。1977年(昭和52年)、子供の歌を作りたいと「ぱくぱくポケット」というシリーズを手がけ、『おはよう!こどもショー』のコーナーでも歌われていた。

これまでの作詞経験から「感動する話は長い、短いではない。3分の歌も2時間の映画も感動の密度は同じである 」との言葉を遺す。しかし、1980年代に入りニューミュージックのアーテストが台頭し、心に響く叙情的歌詞よりもビートのきいたニューポップスの歌詞や外来語が若者層に受けるようになる。

さらに、後進の作詞家である松本隆や秋元康、康珍化が台頭すると、阿久の売り上げは苦戦を強いられるようになる。以降は小説執筆や演歌の作詞などに比重を移した。

直木賞候補となり映画化もされた『瀬戸内少年野球団』など小説も手がけ、1982年(昭和57年)には『殺人狂時代ユリエ』で第2回横溝正史ミステリー大賞を受賞。1997年に刊行された短編小説集『恋文』、長編小説『ラヂオ』はその後ラジオドラマ化され、特に『ラヂオ』(NHK-FM)は第38回ギャラクシー賞ラジオ部門優秀賞を受賞する。

1997年(平成9年)、30年間にわたる作詞活動に対して、日本文芸振興会主催による第45回菊池寛賞を受賞。さらに1999年(平成11年)春、紫綬褒章を受章。2000年(平成12年)10月、掌編小説集『詩小説』にて第7回島清恋愛文学賞を受賞。

2001年(平成13年)に腎臓癌を患い、同年9月12日に癌の摘出手術を受けた。それ以後は癌治療を受けつつ、病身を押して活動を続けていたが、2007年(平成19年)8月1日午前5時29分、尿管癌のため東京都港区西新橋の東京慈恵会医科大学附属病院で死去。70歳没。戒名は「天翔院詞聖悠久居士」。同年3月に行われた石川さゆりの「デビュー35周年 感謝の宴」に出席したのが最後の公の場となった。

日本政府は、阿久の多年に亘る歌謡界への功績を高く評価し、死去した2007年8月1日に遡って旭日小綬章を授与することを9月7日の閣議で決定した。(Wikipedia)



 
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