文学・芸術

「いき」の構造 ③

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zd 粋 ダンディズム8




 「いき」の構造 ③

  九鬼周造


     六 結  論



 民族的存在の解釈としての「いき」の研究は、「いき」の民族的特殊性を明らかにするに当って、たまたま西洋芸術の形式のうちにも「いき」が存在するというような発見によって惑わされてはならぬ。客観的表現が「いき」そのものの複雑なる色彩を必ずしも完全に表わし得ないとすれば、「いき」の芸術形式と同一のものをたとえ西洋の芸術中に見出す場合があったとしても、それを直ちに体験としての「いき」の客観的表現と看做みなし、西洋文化のうちに「いき」の存在を推定することはできない。またその芸術形式によって我々が事実上「いき」を感じ得る場合が仮りにあったとしても、それは既に民族的色彩を帯びた我々の民族的主観が予想されている。その形式そのものが果して「いき」の客観化であるか否いなかは全くの別問題である。問題は畢竟ひっきょう、意識現象としての「いき」が西洋文化のうちに存在するか否かに帰着する。しからば意識現象としての「いき」を西洋文化のうちに見出すことができるであろうか。西洋文化の構成契機を商量するときに、この問は否定的の答を期待するよりほかはない。また事実として、たとえばダンディズムと呼ばるる意味は、その具体的なる意識層の全範囲に亙わたって果して「いき」と同様の構造を示し、同様の薫かおりと同様の色合いろあいとをもっているであろうか。


zd 粋 ダンディズム ハーレー


 ボオドレエルの『悪の華』一巻はしばしば「いき」に近い感情を言表いいあらわしている。「空無の味」のうちに「わが心、諦めよ」とか、「恋ははや味わいをもたず」とか、または「讃ほむべき春は薫を失いぬ」などの句がある。これらは諦めの気分を十分に表わしている。また「秋の歌」のうちで「白く灼やくる夏を惜しみつつ、黄に柔やわらかき秋の光を味わわしめよ」といって人生の秋の黄色い淡い憂愁ゆうしゅうを描いている。「沈潜」のうちにも過去を擁する止揚の感情が表わされている。そうして、ボオドレエル自身の説明{9}によれば、「ダンディズムは頽廃期たいはいきにおける英雄主義の最後の光であって……熱がなく、憂愁にみちて、傾く日のように壮美である」。また「※(アキュートアクセント付きE小文字)l※(アキュートアクセント付きE小文字)ganceの教説」として「一種の宗教」である。かようにダンディズムは「いき」に類似した構造をもっているには相違ない。しかしながら、「シーザーとカティリナとアルキビアデスとが顕著な典型を提供する」もので、ほとんど男性に限り適用される意味内容である。それに反して、「英雄主義」が、か弱い女性、しかも「苦界くがい」に身を沈めている女性によってまでも呼吸されているところに「いき」の特彩がある。またニイチェのいう「高貴」とか「距離の熱情」なども一種の「意気地」にほかならない。これらは騎士気質から出たものとして、武士道から出た「意気地」と差別しがたい類似をもっている{10}。しかしながら、一切の肉を独断的に呪のろった基督キリスト教の影響の下もとに生立おいたった西洋文化にあっては、尋常の交渉以外の性的関係は、早くも唯物主義と手を携たずさえて地獄に落ちたのである。その結果として、理想主義を予想する「意気地」が、媚態をその全延長に亙わたって霊化して、特殊の存在様態を構成する場合はほとんど見ることができない。「女の許もとへ行くか。笞むちを忘るるな{11}」とは老婆がツァラトゥストラに与えた勧告であった。なお一歩を譲って、例外的に特殊の個人の体験として西洋の文化にも「いき」が現われている場合があると仮定しても、それは公共圏に民族的意味の形で「いき」が現われていることとは全然意義を異にする。一定の意味として民族的価値をもつ場合には必ず言語の形で通路が開かれていなければならぬ。「いき」に該当する語が西洋にないという事実は、西洋文化にあっては「いき」という意識現象が一定の意味として民族的存在のうちに場所をもっていない証拠である。


zd 粋 ダンディズム7


 かように意味体験としての「いき」がわが国の民族的存在規定の特殊性の下もとに成立するにかかわらず、我々は抽象的、形相的の空虚の世界に堕してしまっている「いき」の幻影に出逢う場合があまりにも多い。そうして、喧やかましい饒舌じょうぜつや空むなしい多言は、幻影を実有のごとくに語るのである。しかし、我々はかかる「出来合できあい」の類概念によって取交される flatus vocis に迷わされてはならぬ。我々はかかる幻影に出逢った場合、「かつて我々の精神が見たもの{12}」を具体的な如実の姿において想起しなければならぬ。そうして、この想起は、我々をして「いき」が我々のものであることを解釈的に再認識せしめる地平にほかならない。ただし、想起さるべきものはいわゆるプラトン的実在論の主張するがごとき類概念の抽象的一般性ではない。かえって唯名論の唱道する個別的特殊の一種なる民族的特殊性である。この点において、プラトンの認識論の倒逆的転換が敢えてなされなければならぬ。しからばこの意味の想起アナムネシスの可能性を何によって繋つなぐことができるか。我々の精神的文化を忘却のうちに葬り去らないことによるよりほかはない。我々の理想主義的非現実的文化に対して熱烈なるエロスをもち続けるよりほかはない。「いき」は武士道の理想主義と仏教の非現実性とに対して不離の内的関係に立っている。運命によって「諦め」を得た「媚態」が「意気地」の自由に生きる{13}のが「いき」である。人間の運命に対して曇らざる眼をもち、魂の自由に向って悩ましい憧憬しょうけいを懐く民族ならずしては媚態をして「いき」の様態を取らしむることはできない。「いき」の核心的意味は、その構造がわが民族存在の自己開示として把握されたときに、十全なる会得と理解とを得たのである。


zd 粋 ダンディズム5



 {1}Maine de Biran, Essai sur les fondements de la psychologie(Oeuvres in※(アキュートアクセント付きE小文字)dites, Naville, I, p. 208)。
 {2}Nietzsche, Also sprach Zarathustra, Teil IV, Vom h※(ダイエレシス付きO小文字)heren Menschen.
 {3}Verlaine, Art po※(アキュートアクセント付きE小文字)tique.
 {4}ベッカー曰いわく「美的なものの存在学は、美的(すなわち、芸術的)に創作する、また美的に享楽する現実存在の分析から展開されなければならぬ」(Oskar Becker, Von der Hinf※(ダイエレシス付きA小文字)lligkeit des Sch※(ダイエレシス付きO小文字)nen und der Abenteuerlichkeit des K※(ダイエレシス付きU小文字)nstlers; Jahrbuch f※(ダイエレシス付きU小文字)r Philosophie und ph※(ダイエレシス付きA小文字)nomenologische Forschung, Erg※(ダイエレシス付きA小文字)nzungsband: Husserl-Festschrift, 1929, S. 40)
 {5}Paul Val※(アキュートアクセント付きE小文字)ry, Eupalinos ou l'architecte, 15e ※(アキュートアクセント付きE小文字)d., p.104.
 {6}Jahrbuch der Musikbibliothek Peters, 1926, S. 67.
 {7}Lettre ※(グレーブアクセント付きA小文字) Titus Woyciechowski, le 3 octobre 1829.
 {8}高橋穣『心理学』改訂版、三二七―三二八頁参照。
 {9}Baudelaire, Le peintre de la vie moderne, IX, Le dandy. なおダンディズムに関しては左の諸書参照。
    Hazlitt, The dandy school, Examiner, 1828.
    Sieveking, Dandysm and Brummell. The Contemporary Review, 1912.
    Otto Mann, Der moderne Dandy, 1925.
 {10}Nietzsche, Jenseits von Gut und B※(ダイエレシス付きO小文字)se, IX, Was ist vornehm? 参照。
 {11}Nietzsche, Also sprach Zarathustra, Teil I, Von alten und jungen Weiblein.
 {12}α ποτ’ ειδεν ημων η ψυχη(Platon, Phaidros 249c).[#最初のαに帯気+鋭アクセント。ειδενのιに平息+曲アクセント。ημωνのηに帯気、ωに曲アクセント。単体のηに帯気。ψυχηのηに鋭アクセント]
 強調はημων[#ηに帯気、ωに曲アクセント]の上に置かれなければならない。ただしαναμνησισ[#最初のαに平息、3文字目のαに鋭アクセント、σはファイナルシグマ]はこの場合二様の意味で自己認識である。第一にはημων[#ηに帯気、ωに曲アクセント]の尖端的強調による民族的自我の自覚である。第二にはψυχη[#ηに鋭アクセント]と「意気」との間に原本的関係が存することに基づいて、自我の理想性が自己認識をすることである。


zd 粋 ダンディズム1


 {13}

「いき」の語源の研究は、生、息、行、意気の関係を存在学的に闡明することと相俟あいまってなされなければならない。「生」が基礎的地平であることはいうまでもない。さて、「生きる」ということには二つの意味がある。第一には生理的に「生きる」ことである。異性的特殊性はそれに基礎附けられている。したがって「いき」の質料因たる「媚態」はこの意味の「生きる」ことから生じている。「息」は「生きる」ための生理的条件である。「春の梅、秋の尾花のもつれ酒、それを小意気に呑のみなほす」という場合の「いき」と「息」との関係は単なる音韻上の偶然的関係だけではないであろう。「いきざし」という語形はそのことを証明している。「そのいきざしは、夏の池に、くれなゐのはちす、始めて開けたるにやと見ゆ」という場合の「意気ざし」は、「息ざしもせず窺うかがへば」の「息差」から来たものに相違ない。また「行」も「生きる」ことと不離の関係をもっている。ambulo が sum の認識根拠であり得るかをデカルトも論じた。そうして、「意気方」および「心意気」の語形で、「いき」は明瞭に「行いき」と発音される。「意気方よし」とは「行きかた善し」にほかならない。また、「好いた殿御へ心意気」「お七さんへの心意気」のように、心意気は「……への心意気」の構造をもって、相手へ「行く」ことを語っている。さて、「息」は「意気ざし」の形で、「行」は「意気方」と「心意気」の形で、いずれも「生きる」ことの第二の意味を予料している。それは精神的に「生きる」ことである。「いき」の形相因たる「意気地」と「諦め」とは、この意味の「生きる」ことに根ざしている。そうして、「息」および「行」は、「意気」の地平に高められた・・・ Aufheben : アウフヘーベン;止揚 ・・・ときに、「生」の原本性に帰ったのである。換言すれば、「意気」が原本的意味において「生きる」ことである。

 (青空文庫より抜粋)



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