忘れえぬ光景

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sirasujirou1517_img08.jpg吉田茂(右端)と共に出席したGHQ会合にて。




 クールヘッド&ダンディ 白洲次郎


 そんな鶴川の農家にはさまざまな人物がやってきた。近衛文麿もその一人で、白洲はしばらく近衛のために働こうかと考えていた。この思いは近衛の失脚と自害で頓挫した。
 
 正子夫人は鶴川で歴史の奥のほうに心を遊ばせた。すでに能にも本格的にとりくんでいた。それをいそいそと邪魔しにやってきたのが河上徹太郎や小林秀雄だった。青山二郎も加わった。正子が骨董の凄みをこの口の悪い連中に叩きこまれていくのは、しばらくあとのことである。

 戦後の白洲次郎には吉田茂の片腕として、マッカーサーのGHQとの交渉からサンフランシスコ講和条約の締結まで、日本の外交感覚を一身に引き受けたようなところがある。

 GHQの「押し付け憲法」(白洲の表現)の渦中にも居合わせた。『プリンシプルのない日本』にはそのあたりの詳しい事情が綴られている。読んでいくと、たしかに白洲はGHQに尻尾を振っていない。といって、かれらを批判もしていない。あくまで“対等”なのである。

 有名な話だが、GHQの草案に天皇の地位が「シンボル・オブ・ステーツ」と書かれていたのを、松本烝治や佐々木惣一が訝しく感じていたところ、これをさっさと「象徴」と訳したのが白洲だった。本書には、手元に井上の英和辞典があったので、引いて見たらそうあったので、あっさり「象徴としての天皇」が決まったんだというふうにある。


 昭和21年に白洲がGHQ民政局のホイットニーに宛てた手紙がのこっている。

 おおまかな主旨は「あなたがたの道程はアメリカ的で短兵急でありすぎる。それはエアウェイである。日本の道程はデコボコ道を走るジープなのだ。エアウェイはすばらしいし、私は海図の助けも借りずに大西洋横断をやってのけたリンドバーグを賛美する者ではあるけれど、遺憾なことにリンドバーグはアメリカでも稀有である。まして日本では皆無なのだ。いま政党政府をもっていない日本は、もう少し時間をもらって進みたい。よろしく」というものだ。

 あくまで私信である。だから、白洲のこのような“活動”が日米関係にどんな影響を及ぼしたか、今日では現代政治史の研究でもほとんど強調されていない。白洲の“活動”は結局は吉田の表舞台での評価でしか、いまなお語られていない。

ホイットニー宛に送付した手紙でGHQ憲法案に異をとなえた。

 そうではあるのだが、けれども白洲が吉田の「じいさん」に親しみをこめてさまざまな決断を促していなかったとしたら、またその相手のGHQの連中をさまざまに牽制していなかったなら、日本の戦後史の幕開きがどうなっていたか、やはりわからないとも思える。

 そのへんのこと、2009年9月から3回にわたって放映されたNHKドラマスペシャル『白洲次郎』でも、なかなか痛快に描いていた。伊勢谷友介が演じた白洲次郎には、俺がいなければ日本はどうなっていたかわからないという凛然たる陽気が満ちていた。

 その後の白洲には、絞っていえば二つの大事が待っていた。ひとつには、貿易庁長官になって、白洲からするとひどすぎた商工省を改組して、なんとかこれを「通産省」にデコンストラクションさせる手を打つことだった。
 もうひとつには、昭和26年のサンフランシスコ講和条約締結の全権団顧問として、吉田とともに「日本の独立」の形を決めるために奮闘することを自身に課したことである。

 この講和会議はサンフランシスコのオペラハウスで開かれた。なにしろ待ちに待った「日本の独立記念日」なのだ。

 このとき吉田は外務省の役人とGHQの外交部が書いた英語で演説する予定だった。吉田はその演説原稿を白洲に見せた。白洲は怒り出した。

 日本の主席全権の演説をなぜ英語なんかでする必要があるのか。その中身も6年間にわたる占領に対して“おおげさなサンキュー”を二度も言うことになっている。こんな必要はない。おまけに最大の悲願であるはずの沖縄返還については一言も言及されていない。白洲は喚いて、こんなことでは日本はダメになると関係者にまくしたてると、すべてを日本語に書きなおさせた。

 白洲の自著では以上のようになっているのだが、別の記録では演説が日本語になったのは、アメリカ側が「日本のディグニティ(威厳)のために、日本語のほうがいいのではないか」という提案があったとしている。

 真相はわからないが、結果としては、急遽、何枚もの和紙を継いだ日本語の演説原稿ができあがり、沖縄と小笠原諸島の施政権返還についての文言も盛りこまれたのである。
 アメリカのメディアはこれを「吉田のトイレットペーパー演説」とからかい、朝日新聞の天声人語は「不思議な巻紙の勧進帳」と書いた。

 サンフランシスコ講和条約とともに、日米安保条約も調印された。この内容は日本国民にまったく知らされていないものだった。それだけではない。この調印はなんと米軍の下士官クラブでおこなわれたのだ。白洲ならずとも憤懣やるかたなかったことだろう。

 二つの大事はおわった。白洲の「お上」のための「おつとめ」も、ここまでだった。なぜ「おつとめ」を降りたのか。

 白洲には日本を代表しようとする連中の「植民地根性」と「借りもの民主主義」がどうしても気にいらなかったのだ。日本の政治家と役人は八方美人にこだわりすぎて、何らの大胆な手も打てないのだが、その八方に国民が含まれていないのも気にいらない。

 しかしとはいえ、これでアメリカ軍付き基地付きの「独立」は決まってしまったのである。しばらくはこのままの形で日本は経済復興するしかないだろう。
 白洲は覚悟する。吉田のじいさんにも辞任を薦め(吉田はすぐに辞めなかった)、それが無視されると、またまたさっさと表舞台から退くことにしてしまったのである。

 このあとの白洲は東北電力の会長としての活動と、軽井沢ゴルフ倶楽部の理事長としての仕事が主なものになる。池田勇人の高度成長政策のなか、もはや白洲には政治も外交も“御用”ではなかったのである。
 
こうして、白洲は晩年を経済活動半分、悠々自適半分でおくる。何社ものマスコミや何十人ものジャーナリストが白洲の“秘話”を聞き出そうとしたが、白洲はいっさい断っていた。白洲次郎は「謎の男」になっていったのだ。

 昭和60年(1985)11月、白洲は夫婦で伊賀・京都に旅をした。伊賀では、福森雅武の窯で素焼きした湯呑み200個に好きな字を書き、京都では「松八重」や嵐山「吉兆」でご飯を食べた。旅から戻って5日目、白洲は起きられなくなっていた。急遽、東京の病院に搬送されて、検査に入った。

 看護婦が注射をしようとして、「白洲さん右利きですか」と問うと、「右利きだけど、夜は左利き‥」と言おうとして、そのまま眠りに落ち、2日後に亡くなった。夜はお酒を呑むので左利きだよというジョークだった。83歳の大往生である。遺言はたった2行だった。「葬式無用、戒名不用」。

 (松岡正剛 評論集『プリンシプルのない日本』より)




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