忘れえぬ光景

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 白洲正子が認めた横石順吉


美のとらえ方は千差万別だ。人の数だけ美の世界はある。

人の数だけ正しい主張がある(西行法師)と思えば目くじらを立てることもあるまい。

秘すれば花、枯淡の美、余白の美、幽玄は東洋的概念だ。

権勢を誇示する王宮・寺院、肉体のエロスを表現するギリシャの彫刻美、雄大で悠久の大自然の造形美、派手でギラギラした目のやり場のない現代アート、コンピュータグラフィック・・・東洋的、西洋的という二元的固定観念で振り分けることはできない。

幽玄や枯淡、日本美の伝統的、古典的解釈となった「能」芸術を大成した世阿弥の著書「風姿花伝」の一節もまた日本人好みの奥の深い美の解釈であることは否めない。

「秘すれば花」の真意を観阿弥が伝えている。

「能」は家伝の奥義として門外不出の芸であるため、他家に流出させてはならない秘伝であった。現代の企業秘密と同様に、著作権を侵害されたらすべての筋書きが観客にわかり、能の舞台が成り立たなくなるからである。また、能の芸そのものについても同じだ。継続させるための家伝の奥義と芸の奥義を両方含んでいる。

現代世界にも充分通用し、国家、企業、個人の知的財産を守護する絶妙のストラテジーである。

「すべてを見せてしまうということは、言い換えれば、その芸術は所詮見えるだけの要素しかもっていない、ということである。観客がその裏に込められた余情を楽しみたいと思っても、そうした余情を醸しだすことのできない薄っぺらな存在だということだ。」

古典的見地に立てば、現代世界の人間のしていることは、おおむね金儲けのためだ。

昔は、資本主義というなりふり構わない虚飾、効率、営利の習慣などなかったのだ。
すべてを暴き、さらし出さなければ、人は感動し、満足しない、という安っぽい時代なのかもしれない。
自分の肉体を衆目に晒けだすような文化は幽玄を旨とする日本文化には存在しない。

草刈のヌードは、加齢とともに失われ逝く己の肉体美を今のうちに換金しておかねば、二度とチャンスは訪れないと言う、焦りと足掻きの茶番劇と捉えた方が以外と真相に近いのかもしれない。

そもそも文化や伝統なるものは、他の地域や民族間の交流によって生じた、混交の融合文化であり、独自の発達を遂げたものは稀である。歴史的にその場に居合わせなかったので理解できないだけのことである。実像を目撃しない限り、真相はいつも藪の中、である。

万物は流転する。
遺伝子も周囲の環境に適合して変化する。
変化しないものは朽ち果てていくしかない。

事物の価値観が多様になり、時代とともに選択肢が増大し、過去のパラダイムが衰退するとき、美の価値基準もまた変容していくことは自然の摂理であろう。

美とは、百人百様、鑑賞する側の自由な解釈でよいのだ。
文化や芸術は、所詮、模倣とパクリが出発点であることに変わりはない。
日本人は、人道・徳義でギャア~ギャア~騒ぎすぎるからいつになっても停滞して進化しない。
農耕民族・稲作文化のセケンサマ・連帯感・羨望嫉妬から抜け出せない悪習でもある。

この意味では、白洲正子の美意識・審美眼に賛同できる。

それにしても、白洲正子と次郎さん
決して夫唱婦随・偕老同穴ではなかったようだが、息(いき)のあったイキな夫婦だった。
我家のモナリザの本心は永遠の謎であるが、白洲家に劣らない夫婦だと諦観している。



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 白洲正子『日本のたくみ』(新潮文庫より)

 「たくみ」感とは、自然をどれほど自然に自分のものとして自分のなかに取り入れられるか、その能力の高い人が優れた「たくみ」になる、というようなものと私は考えます。自然の素材を、その生成の良さを生かして、不必要な造作を入れることなく、作品化していくか。当然そこでは、それを作る人間の生成の良さも求められるわけです。

 どうも、その人間の生成の良さ、というのが、毛並みの良さではないかと、私には思われるのです。一般に言われる、家柄の良さ等々の問題では当然なくなるわけで、魅力ある人間の作り出すものはそれがゆえに魅力的である、という単純な話に帰結するのでしょう。

 贋物の古伊万里をはからずもつくることになってしまった夭折の陶芸家について書かれた文章「贋物づくり-横石順吉」の末尾。


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 「世上の噂によれば、順吉さんは唐津や李朝の方が、伊万里より一段と上手で、桃山時代の名品の中にも、いくつか交っている(真贋判定できずに紛れて売買される)と聞いたことがある。それでよいではないか。彼以前にも、名工は沢山いたに違いなく、どれ程多くの後世のものが、古作の中に入っているか知れたものではない。

 そして、美しい新作の方が、古いじょぼたれ茶碗よりはるかにいいに決っている。断っておくが、私は贋物でもいいといっているのではない。贋物はあくまでも悪いのである。この頃は真贋についての論議がはやっていて、時には、本物と贋物の写真を、御丁寧に並べて見せたりする。が、骨董という煩悩の世界は、そんな単純な考えでわり切れるものではない。

 自ら手を汚したことのない門外漢が、単なるのぞき趣味を満足させているにすぎない。骨董ばかりでなく、本物のような顔をした贋者が、大手を振って世間に適用しているのは、そういう人種がふえたせいだろう。それに比べたら、嬉野のクラブのA子ちゃんに会いたさに、贋物を造った順吉さんの方が、どんなに無邪気でまともな人間か。そう知っただけでも私は、九州くんだりまで訪ねていった甲斐があったと思っている。」



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横石順吉と親交があった知人から、むかし大皿と中皿を譲ってもらったが、忘れていた。
ご本人が直接持参してお礼に置いていった、というから間違いないだろう。

古唐津、李朝の贋作だが、白洲が愛した順吉の作品に合点がいく。
比較は無意味だが、現代唐津の人間国宝の高価な作より、技・雅味ともに優れている。
はじめて、素人撮影を試みた。



  
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