やきもの

柿右衛門の濁し手

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k 濁手と柿右衛門 東京国立博物館蔵




 濁手と柿右衛門


 濁し手(にごしで)

  「濁手(にごしで)」は米の研ぎ汁のようにやわらかみのあるミルキーホワイトの色をした白磁素地のことである。一般の有田焼の白磁素地は、やや青みを帯びている。それに比べて、「濁手」は青みがなく、純白である。

 白磁にも、数え切れないほどいろんな白色があるが、中国の白磁、李朝白磁、青みがかった青白磁などそれぞれに美しいものの、透きとおる人肌のようなたおやかな純白は、唯一無二で世界に類を見ない。


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 しかし、江戸時代の後半には濁手素地づくりは途絶えていた。その復元が昭和28年(1953)、12代酒井田柿右衛門(1878~1963)と13代酒井田柿右衛門(1906~1982)の尽力によって成功した。


  有田磁器の初期、酒井田円西と息子の酒井田喜三右衛門は佐賀県西松浦郡有田町に移住し、陶器や白磁、染付などの磁器を製作していた。

 のちに喜三右衛門は乳白色(濁手)の地肌に赤色系の上絵を焼き付けるという赤絵磁器の焼成に成功し、「柿右衛門」を名乗る。この作風は「柿右衛門様式」と呼ばれるようになります。
初代以降、酒井田柿右衛門は継続しており、現在は第十五代になる。

柿右衛門様式の特徴は乳白色の余白。
鍋島や他の伊万里と違い、大きな余白をとって白地を見せる。
これによって地色の濁手(乳白色の地色)が非常に美しく映える。
赤色系が基調の大和絵的な花鳥図は非対称である。
器口縁の「口銹」と言われる銹釉も特徴のひとつ。

赤だけではなく黄・緑・青・紫・金も使うが、
基本は【赤】【群青】【青緑】【赤さび】である

日本では初めて赤絵付けに成功し、日本だけでなく遠く海外まで影響を与えた(磁器の発祥地景徳鎮にさえも柿右衛門様式は影響を与えた)柿右衛門の器はある意味で「和の美、その極み」と言えよう。その「余白取り」は明らかに後世の美術、また日本料理にも深い示唆を与えた。


k 濁手と柿右衛門1



 酒井田柿右衛門


酒井田柿右衛門(さかいだかきえもん、初代:1596年11月15日(慶長元年9月25日) - 1666年7月20日(寛文6年6月19日))は、江戸時代、肥前国(佐賀県)有田の陶芸家、および代々その子孫(後継者)が襲名する名称。

2015年3月現在、第十五代酒井田柿右衛門(1968年 - 2014年に襲名)が当代である。

良質の陶土が発見されたため現在の佐賀県西松浦郡有田町に移住した酒井田円西は、息子である喜三右衛門とともに陶器や白磁、染付などの磁器を製作していたが、やがて17世紀前半に喜三右衛門は赤絵磁器の焼成に成功し、柿右衛門を名乗った。

初代は乳白色(濁手)の地肌に赤色系の上絵を焼き付けるという柿右衛門様式(後述)と呼ばれる磁器の作風を確立し、その作品はヨーロッパなどにも輸出されマイセン窯などでは模倣品も作られた。また、磁器の発祥地である中国の景徳鎮窯にも影響を与え(景徳鎮伊万里)、同様の作品が作られやはりヨーロッパに輸出された。1666年に没した初代、その息子である二代(1620年-1661年)、二代の弟の三代(1622年-1672年)は製作期が重なっており、作風にも大きな差は見られない。また、三者とも極めて技量が高かったと言われる。これに加えて四代(三代の息子、1640年-1679年)までの間が初期柿右衛門とされる。

続く17世紀後半から18世紀前半にかけての約90年間、五代(1660年-1691年)から七代までが中期柿右衛門とされる。五代は技量が芳しくなかったために、1685年を以って鍋島藩からの恒常的な発注が差し止められた。六代(1690年-1735年)は意匠・細工に優れた叔父の渋右衛門にも助けられ、食器類のほか花器、香炉など様々な磁器製品を高い水準で量産することに成功したため、中興の祖とされる。また1724年には嘆願書を藩に提出し、臨時の発注の一部が酒井田家に用命されることとなった。この一方で、高い技術が要されることなどから七代(1711年-1764年)以降に濁手の作品は中絶してしまう。

18世紀前半から19世紀にかけての八代(1734年-1781年)、九代(1776年-1836年)と十代(1805年-1860年)の期間は後期柿右衛門とされ、主に染付の磁器を製作した。七代から八代にかけては四角の中に福の字が入った「角福」と呼ぶマークを施したものが多い。これは明清の陶磁器に元々あったものである。

近代以降では、十一代(1839年-1916年、1860年に襲名)は「角福」のマークの商標登録の可否などを争う訴訟を起こして経済的に困窮したが、海外にも積極的な出品を行なった。1919年には出資する事業家と共同で十二代が柿右衛門合資会社を設立し、赤絵技術と「角福」銘を供与した。しかし美術品の制作を志向する十二代(1878年-1963年)は会社と経営方針が合わず、1928年に関係を解消した。以降それぞれが「柿右衛門」作品を制作したが、1969年に和解し、その後合資会社は名義を使用していない。

十二代と十三代(1906年-1982年)は1947年頃から濁手の復活を目標とし、1953年に初めて濁手の作品を発表した。濁手の製作技術は1955年に国の記録作成等の措置を講ずべき無形文化財に選択され、1971年には重要無形文化財に指定されている(保持団体として柿右衛門製陶技術保存会を認定)。


k 濁手と14代柿右衛門


 柿右衛門様式

柿右衛門様式は、主に大和絵的な花鳥図などを題材として暖色系の色彩で描かれ、非対称で乳白色の余白が豊かな構図が特徴である。上絵の色には赤・黄・緑、そして青・紫・金などが用いられる。また、器の口縁に「口銹」と言われる銹釉が施されている例も多い。同じ有田焼でも、緻密な作風の鍋島様式や寒色系で余白の少ない古九谷様式と異なり、柔らかく暖かな雰囲気を感じさせる。

濁手と呼ばれる独特の乳白色の地色は、赤色の釉薬との組み合わせによって非常に映えると言われる。しかし、原料となる土の耐火性が強いなど調合が困難である。さらに焼成時・乾燥時の体積変化が非常に大きいため、作製が困難であり歩留まりが良くない。

図柄には「岩梅に鳥」「もみじに鹿」「竹に虎」「粟に鶉」など典型的なパターンがいくつかある。絵柄は時代とともに変化しており、初期は明赤絵の影響があったが、やがて狩野派、土佐派、四条派、琳派などの影響が入っていった。近年は写生を基にした現代的な画風が多い。

 製作の分担

作品は「酒井田柿右衛門」名義となるが、特に江戸時代における陶磁器の製作は成形、焼成、絵付けなど各プロセスをそれぞれ熟練した職人が分担しており、一人で製作していたわけではない。例えば明治時代以降では数十人の職人を雇用しており(それ以前も同様と思われる)、個人のクリエーターというより製作チームの統括者かつデザイナーとして考えた方がより実像に近い。このためなどもあり、初代が柿右衛門様式を考案した単独の個人であるかを疑う学説もある。(加藤唐九郎らの提唱。)




 
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