文学・芸術

ガラパゴス症候群

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 『存在の耐えられない軽さ』

 ミラン・クンデラ


最近よく「ガラパゴス化」という表現を耳にし眼にする。
イシコロの携帯もガラケー(ガラパゴス・ケータイ)でカケホ(かけ放題)契約だ。

生物の進化が、孤立化のため、ある時期から停止してしまい、抜け出せない状況のことであろう。

骨董好きが、必ずしもノスタル爺のトレードマークでガラパゴス症候群患者とはかぎらない。
現代の無機質で渇いた魅力のない大量生産品と異なり、手仕事で時間をかけて作られた匠のイッピンに美の境地を再確認する。
そして、たなごころ(掌)の広い宇宙に出かけ、大らかで、朴訥で、ゆったりした、心和む空間を刻を忘れて彷徨うことができるのだ。

フェミニズム運動の女性の地位・待遇。
時代から落伍してついていけない企業・組織・人間。
ともすれば、社会や時代の弱者に当てはめる残酷でシニカルな表現である。

男性上位か女性上位か、TPOによって目まぐるしく変わる現代でもある。
男と女の心理的葛藤描写を巧みに描出したミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』から、
進化しない「男のガラパゴス症候群」について紹介してみる。

それは、男性生存本能の生物学的宿命ではないかと言われれば返すことばはない。



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 人間存在の軽さと重さ・・・男の軽さ

 第3部の『理解されなかったことば』は、さらに私の笑いを誘った。第6部のアメリカ人とフランス人の断絶の描写も面白かったが、秀逸と思ったのはこの第3部である。

 ここではフランツという2人目の男が登場する。場所はジュネーブ。そして彼と「理解されなかったことば」を交わすのはサビナである。サビナはトマーシュ、テレザと共にプラハにいたのだが、ソ連軍が侵攻してきたためスイスへ亡命したのだった。(トマーシュとテレザも一度はチューリッヒへ亡命したのだが、テレザが別れを記した手紙をおいてプラハに帰ってしまったため、トマーシュは3日間逡巡した後プラハに戻る)。

 私が感心したのは、書き手が、ここに示される断絶について「そーいうもんだよね」ということで描いていることである。断絶に気づかない男と、断絶を断絶として提示しない女として2人は終止するが(そのためこちらとしてはどうしてもフランツがただの間抜けに見え、したがってサビナが彼との関係に積極的ではなく、断絶が露呈しても放っておいているように見える)、その断絶に対する態度も含めて、それぞれがそれぞれの断絶を形成してしまう背景を見ると、フランツはフランツで筋が通っているし、サビナに関しても同様である。彼らの生き方の違いとして断絶は生まれるわけで、やはりこれはしょうがないとしか言い様がない。いや、むしろそれが当然なんで、以心伝心といかないことは別に悪でもなんでもないのである。

 彼らの断絶の中で一番笑ったのは次の話である。

 サビナは浴室からもどってくると、そのあかりを消した。こんなことを彼女がしたのは初めてだった。フランツはこのしぐさにもっと注意すべきであった。彼には光が何の意味も持っていないので、それに注意を払わなかった。知っての通り、愛し合うときフランツは目を閉じるのが好きであった。

 そして、まさにその閉ざされた目のゆえにサビナはあかりを消した。彼女はもう一瞬といえども閉ざされたまぶたを見たくなかった。諺にいうように、目は心の窓である。彼女の上でいつも目を閉じたまま激しく動いたフランツの身体は彼女にとって心のない身体であった。それはまだ目が開いておらず、のどがかわいているので力なくピーピー鳴く動物の子供に似ていた。あの最中の素晴らしい筋肉をしたフランツは彼女の乳房で乳を飲む大きな子犬のようであった。

 本当に彼は乳をちゅうちゅうやるかのように彼女の乳首を口にしていた!下半身は成熟した男で、上半身は乳を飲む子供、すなわち赤ん坊とことを営むという考えが急にサビナにはほとんど嫌悪といっていい感情をおこさせた。いやだわ、もう二度と彼が自分の上で絶望的に動くのなんて見たくないわ、雌犬が子犬にするように自分の乳房をふくませるなんてもう二度としないわ、今日が最後よ、絶対におしまい!

 彼女はフランツに黙ってパリに行ってしまうのである。
 パリへと移ったサビナは、しかし「存在の耐えられない軽さ」からくる憂鬱に苛まれていた。その後彼女はフランツにつけまわされたり復讐されたりすることはなかったが、まさにそれこそが問題だったのである。

 現代では、未練やストーカー行為は悪や迷惑行為と疎まれ敬遠されその線引きは難しい。
ところが別の意味で、この感情や行為は根気とねばり強さのことで、愛情や人間の絆を形成するのに不可欠の要素でもある。
量子力学領域の素粒子やニュートリノは、人間が感知できない世界の話である。

 質量(重さ)が存在しない世界は、実に無機質で殺伐とした無重力フィールドで人類が住める場所ではないことは、度重なる宇宙ロケット打ち上げですでに実証済みである。
質量の軽い物体がより重い物体に磁石のように引き寄せられる。
これが単純な宇宙の大原則である。人間の理性や感情もこの例外・圏外に脱することは不可能なことである。

 彼女は「軽さ」に耐える女である。書き手が最初に「軽すぎるということは自由ではあるが意味がない」と述べていたもののモデルのように思われる。確かに彼女は自由であったが、そのために彼女は両親や祖国、愛を裏切ってきた。おそらくこの先もそのように生きていくことだろう。

 しかしもはや裏切るものがなくなったとき、その結果はどういうものなのだろうか。そしてその先はどうやって生きていけばいいのか。自由であることの軽さ。何からもつなぎ止められていない自分とは、誰にとっても何にとっても意味のない存在ではないのか。

 そう考えるうちに3年が経ち、ある日彼女はトマーシュの息子から手紙を受け取る。それはトマーシュとテレザの死を告げるものであった。彼女はトマーシュという過去とのつながりをまた一つ失ったことで、かなり打ちのめされる。そして手紙の中に、トマーシュとテレザが幸福であったと思われる記述を認め、ふいにフランツの事を思い出すのである。

 彼女は、フランツと自分の断絶に我慢がならなかったことを悔いた。「もっと長いこと一緒にいれば、話し合ったことばがしだいに理解されてきたかもしれなかった」。このときサビナは「重さ」に憧れたのかもしれない。テレザという「重さ」と共に幸福に暮らしていたトマーシュのように、自分もフランツという「重さ」があれば、これほど虚しい思いもしなかっただろうにと・・・・・。



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 イシコロモノローグ

 時間と郷愁について大変興味深い考察を繰り広げるこの作品の中で、クンデラは「郷愁の数学的パラドクスともいうべきものを理解しなければならない」として、郷愁を老いのセンチメンタルな徴候と見る私たちの思いこみとは、まったく逆のことを言っている。「郷愁がもっとも強いのは、過去の人生の総量がまったく取るに足らない青春時代なのである」

 クンデラの作『無知』は亡命の終わりを描いた作品だ。永遠に続くかと思われたソヴィエト・ロシアの支配が終わりを告げ、それぞれの国で新しい生活を送っていた亡命者たちが複雑な思いを抱きながら故国へ帰る。

 男女関係の不条理と歴史の不条理を、哲学的に、文学的に綴ったクンデラの読者にはお馴染みの手法である。『オデュッセイア』を引き合いに出しながら、故国に戻ったオルフェウスは果たして幸せだったのか? と問いかける。

 亡命という「物語」はつねに、故国から離れることの悲劇性と帰還の美しさを語ってきたわけだが、いざ亡命者が故郷に帰ればそこに彼らの居場所などありはしない。長期間の転勤生活を終え、やっとふるさとの自宅に帰郷した場合もそうだ。そうしたエピソードから炙りだされるのは、記憶はあまりにも小さく、経験や知識は常に何の役にも立たない、という人間の本質的な状況である。それが悲しくも愛すべき人間の「無知」というわけだ。

 クンデラが描くプラハに、幻想の入りこむ隙はほとんどない。あっという間に資本主義化したこの街を、ただ客観的に眺めているという感じだ。主人公の目に一瞬垣間見えた、愛すべき自分だけのプラハでさえ、それが彼女の住むパリへと続く人生の個人的な断片でしかないことをクンデラは意識している。

 クンデラにとって「亡命」は明らかに終わったのだ。
「懐かしい」という言葉、そして感覚を愛すること。当たり前のようでいて、ちょっと不思議でもある。何かが「失われた」ことに気づくからなのか、それがほんの少しばかり「戻ってきた」と感じるからなのか。いずれにせよ、この言葉への甘い幻想を打ち砕いてみせたこの小説は、読んでいて苦しい。それを軽いタッチで描いてさらりと流してしまうあたり、さすがクンデラと言うべきなんだろうか。

 男と女の生物時間はかなり皮肉だ。生物として淡くなってきたころ、男はようやく悲哀を知って脂ぎったものが脱け始める。反対に、女はたっぷり濃厚な出汁がとれそうなほど骨髄に経験を蓄えて、これまでの無為の悲哀に立腹し始める。渋い中年男性はいても、渋い中年女性などというものは存在しないのはそのためだろう。

 私たちの生が一回性であるかぎり、どの年代も初体験、未知との遭遇であり、生きている限り、我々は常に構造的な無知(未知)のなかにいる、といってよい。ミラン・クンデラの作品『無知』は愚かしさを嗤(わら)う罵言ではなく、これまで何度も似たような体験をしてきたデジャヴの意識の中で、また同じことを無意識に繰り返している人間世界の危機意識のない「知の限界」の愚かしさ&滑稽さを表現したのであろう。


zd ペルソナ 無機質な美容整形の仮面 


 無知の知(クンデラ)、無意識の識(フロイト)、無用の用(老子)にも示されるように、我らはいつも無と存在の領域を振り子のような正確さではなく、理性と感情にまかせてただ取るべき手段もなく往復している。このようなわれらの原初的生物の、神聖で愚かな行動を『無知』と表現したのであろう。

 この中では、人間が主張する生命の重さという単位は存在しない。気体のように、雲のように風に吹かれて飄々とあてもなく漂う羽毛の軽さに似ている。

 人間の存在とは何か、という身勝手で人間独自の独善的発想は拒絶される。
 無常観、はかなさ、かそけさ、という日本人好みの言語表現では説明できない無知の世界である。

 クンデラは、存在の前に、人間を付けて『人間存在の耐えられない軽さ』を伝えたいのだ。
今でも変わること、改善されることのない、地球的「男尊女卑」を隠した見え透いたドグマ。
虐げられる女性、老人、子ども、障害者そして踏みにじられる弱小の民族、人間への冒涜をあばいてみせる。

 決して、存在しない(現実には救われることのない)神ではなく、実存する人間に対する冒涜を、である。

 この点においては、アンガジュマン engagement(第二次大戦後の社会参加による体制への不服従)を旗印にした、かっての実存主義作家(サルトルなど)時代より進化している。

 これが民衆に開眼をうながす文学のもつ力であろう。
いくらデモをして、反対、反対を叫んでも体制は変わることはない。

 膨大な過去の文化的遺産・知識・智慧で対処しようとしても、
どうにもならない人類の愚かさと無知を、ミラン・クンデラは
『存在の耐えられない軽さ』と命名したのではないだろうか?


  
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