忘れえぬ光景

古伊賀 礼讃

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波佐見時代に、焼き締め作陶家・奄留(えんりゅう)窯主人から譲り受けた 『倣古伊賀耳付花入』 高さ28cm




 奄留(えんりゅう)窯主人を偲んで



イシコロの忘れがたき想い出のひとつである。

虚空蔵山麓に位置する猪乗(いのり)の里中腹に奥方の地所畑を切り開いて、焼き締め窯を開窯した。
屋号(窯名)は、「仙境に奄留(久しくとどまる)する」という意味の「奄留:えんりゅう」にしたそうだ。
家屋・作業場・優雅なトイレ棟・五右衛門風呂そして三段の登り窯をすべて自分で造った。
一風変わった御仁で、寡黙で頑固で取っ付きにくい性格であった。

壺・花器・水差しの茶陶器、酒器、湯飲み、皿・・・すべて蹴轆轤で創り、徹底していた。
「のんちゃん」と呼べるようになったのは、何度か一緒に吞んだ後の話である。
山野草をこよなく愛し、やきしめで創った植木鉢がみごとに調和していた。

年に二回の窯開きの後に、福岡市内で創作個展を開いていた。
折々の窯でできた最高傑作は、手放したくなかったのか「売約済み」の札を貼り持ち帰った。
もともと、大工・左官の技術を身につけていて、二足のわらじで生活に困ることがなかったのだろう。

その垂涎の逸品を懇願してやっと譲り受けた。
値引きを赦さない破格の値段だったので月賦にしてもらった。
作品全てが割れ木のように荒々しく朴訥で男性的。
いっさい妥協せずわが道をひた走る彼の性格をよく顕わしている。
それが、グラビアトップの花入れである。

三年間の交友の後、転勤で波佐見を離れ訪問する機会がなくなった。
第二の人生として、出稼ぎ先大学の長与在住時に、時が経ってのんちゃんの訃報を知った。
「才子短命」と呼ぶにふさわしい、稀有な粋人だった。40代半ばのマサカの坂だった。

ネットやテレビで、古伊賀・古備前の現代有名作家の作品を目にするが、引けをとらない。
ぐい飲みや徳利は、やきもの好きの友人に渡ったが、花器と水差しだけが遺った。



 古伊賀の破格の魅力


やきものは、食器としては、食菜を引き立てる端正で滑らかなうつわが無難である。
ところが、茶の湯の世界ではそうでもない。
日常性を逸脱した、ハッとするような破格の作風、侘び寂び、が重宝される。
人間も、完全を目指しながら、未熟・不完全のまま生涯を終える。
そんな 「コワレモノとしての」 焼き締めに共感をいだくのかもしれない。


端正な形態を拒否した上に,さらに激しい炎の洗礼を受けて生じた歪みやひび割れ,偶然の窯変によってできた焦げ,ビードロ釉,そして強烈な作意を窺わせる 目などが見所となった古伊賀の花生や水指の風格は,他に類例を見ることができないほどの美しさを持っている。

古伊賀は、織部焼と同様に抽象芸術における東洋のアヴァンギャルド的先駆けでもある。


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三重県伊賀地方において,桃山時代以前に窯業が行われていたのか,そしてそれはどの時期に始まったものか,現在においても依然明確になっていない。桃山時代に茶の湯に用いることを前提として焼成された伊賀焼は,古伊賀と呼ばれ,筒井伊賀,藤堂伊賀,遠州伊賀とに区別されているが,そのそれぞれが何処で何時から何時まで焼かれていたのか,伝世しているそれぞれの古伊賀がどれであるのか,推測の域を出ない。桃山時代に,槇山窯,丸柱,上野城内の3ケ所で焼かれていたことが現在までの調査で明確になっているが,詳細については今後の窯跡調査を待たなければならない。

信楽においては,桃山時代よりかなり以前から雑器類が生産されていたことが知られているが,これらが焼かれていたことが想定される五位の木窯と,槇山窯とは隣接した位置にあり,使用された土にも,焼成の方法も差異は小さく,現在の時点において信楽で焼かれたとされている壺や甕の中に伊賀で生産されたものが存在する可能性は高い。一般的には,伊賀においても中世に窯業が既に行われていたとされている。


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茶会記において,天正9年(1581)11月に「伊賀壺」が用いられたことが記されているのが確実な史料での初出で,好評を得て以後たびたび茶会記に「伊賀壺」は登場しているが,茶陶・伊賀の焼成は,古田織部の弟子で数寄者であった筒井定次が大和郡山から伊賀上野へ国替えとなった天正13年(1585)正月以降に始まったものと考えられてる。

茶の湯の器として焼成された伊賀焼が用いられたことを記す最も早い記述は,桂又三郎氏によれば,天正15年(1587)正月24日の紀州徳川家旧蔵『利休自筆御茶会席』(『利休百会記』)に記述があることになるが,この徳川家旧蔵の記録を全面的に信用することはできず,茶陶・伊賀焼の開始は慶長年間にまで下る可能性もある。筒井定次が改易されたのが慶長13年(1608)であることから,筒井伊賀はこの年までに焼成されていたことになる。


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藤堂伊賀は高次の時代,すなわち高虎が没した寛永7年(1630)以降ということになる。しかし筒井定次改易から寛永7 年まで領主であった高虎の時代の消息は伝わっていないが,高虎と古田織部や小掘遠州との交友関係からして高虎の時代も焼成されていたことを否定することは難しい。遠州伊賀については,寛永年間であろうと推測されるくらいで不明な点が多い。

茶の湯が「わび」という明確な理念を確立し,唐物嗜好から脱皮して,粗末な雑器を茶器に見立て,そして自らの好みに合う茶道具を創造していくことになるが,同じ意図から作陶された同時代の陶芸のなかでも豪壮な古伊賀は,破格の風情を持っている。


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水指のなかで古伊賀を代表するのは,藤堂家伝来の「伊賀耳付水指 銘 破袋(やぶれぶくろ)」 (五島美術館蔵)であろう。この銘は重要文化財指定の際に銘が付けられている。この「破袋」に添えられていた大野主馬宛の織部の消息には「内々御約束之伊賀焼ノ水指令進入候 今後是程のもなく候間 如此侯大ひゞきれ一種侯か かんにん可成と存候」と記されている。ほとんど全体に若草色のビードロ釉がかかり,膨った胴の縦に生じた山割れ,縦横に入ったひび割れが景色となり,堂々とした姿が魅力的である。

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桃山時代に焼成された伊賀焼のなかで花生にも優品が多い。口辺の破片が飛び散り,胴の部分などに突き刺さるように付着して,からたちの棘を連想させることから命銘された「伊賀耳付花生 銘 からたち」 (畠山記念館蔵)」は創意と大自然の変化の強さを窺わせている。口作りは薄く,底部に一周と六角面取りの胴のように箆目(へらめ)が入れられている。裾の濃い焦げの上に厚くビードロ釉がかかり,たとえようがない程色彩も深い。前田家伝来。


a 古伊賀 花生 銘 芙蓉
擂座(るいざ)花生 銘 芙蓉(ふよう)高さ28.6cm


「伊賀擂座花生 銘 芙蓉」は俗に「花不用」(はないらず)と呼ばれている。この花生を所蔵していた益田紅艶は,「この伊賀に 上野あるかは志らねども 花は不用と人ハ云ふなり」という狂歌を箱の裏面にしるしている。口部は朝顔形に開かせ,胴には縦に箆目を入れ,厚い底を付けている。胴から裾の濃い焦げ,ビードロ釉など,古伊賀を代表する魅力を備えている。



 収蔵品 : 奄留(えんりゅう)窯&泥縄窯
 

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わかりやすく言えば、伊賀焼は信楽焼を特別に長時間焼成したものと思えばよい。


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古伊賀は、茶陶磁として特別に注文制作されたので、格調が高く、残存数も少なく稀少である。


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雑器として大量生産された信楽よりも焼成時間が長く、キンキンに焼き締っているから、重厚で迫力がある。


 
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