雑学曼陀羅

緑茶と鎖国

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 負の遺産? 鎖国


 茶の語源


 茶をティーと発音する地域と、チャを発音する地域がある。語源は中国の広東語のCH’Aと福建語のTAYである。広東語のCH’Aは東北アジアに伝わって日本(日本語ではチャ)にも到来し、陸路モンゴル(乳茶、塩味の緑磚茶)、チベット(バター茶)、インド、中近東(ペルシャでは苦く黒く、ういきょうの実か丁子を入れる)、東欧に伝わった。西ヨーロッパの例外はマカオから輸入したポルトガルだけである。福建語のTAYは厦門から輸入したオランダを介して西および北ヨーロッパに広がった。わたくしの体験では広東語の普及しているインドネシアでは「テー」であったが、福建語の強いシンガポールでは「チー」であった。

 オランダには最初日本の平戸から緑茶が入った。一六一〇年のことである。オランダでは薬用として愛好され、中国から大量に輸入しはじめる。これがイギリスに伝わり、当初は「チャ」に近い発音であったが、一六四四年福建省の厦門から輸入しはじめて「ティー」となった。茶は薬用としてではなく、しだいに飲料として愛好されるようになった。

 一八世紀のはじめまでは緑茶の方が多かったが、その後逆転し、同世紀のなかごろには三分の二が紅茶となっている。砂糖を入れ、バター付きのパンと合わせて朝食の不可欠のものとなり、あるいは午後のティータイムが憩の場として普及した。この時期アラビアからはコーヒー、新大陸からはココアが伝わっていたが、イギリスでは中国の茶の方が隆盛した。

 一六世紀から一七世紀にかけて日本は豊富な銀を武器に、中国や東南アジア、さらにインドやヨーロッパの物産を大量に輸入した。木綿と生糸・絹織物、香辛料(胡椒と蘇木)と食物(カボチャ、サツマイモ、砂糖)、タバコ、陶磁器、それに鉄砲、時計、カルタなどである。これらいわゆる南蛮文化は、生活の各所で革命を起こした。木綿革命、甘さの革命、武器の革命などを生み、日本人の生活を豊かであるとともに、きめこまかなものにした。

 茶は照葉樹林地帯の産物で、縄紋時代から日本にあったと思われるが、鎌倉時代に栄西によって改めてもたらされ、禅宗とともに普及した。栄西の『喫茶養生記』にあるように、茶は薬であった。日本で普及したのは緑茶である。これには茶器が必要で、瀬戸焼など陶器の発達を促し、闘茶という農村の遊びから、茶道の原型が作られ、ついには茶室の建築まで進んだ。

 ただし茶器に磁器が用いられるようになるのは、一五九〇年代の豊臣秀吉による朝鮮侵略で朝鮮の陶工を多数強制連行してからで、伊万里焼の李参平の磁器製造が最初である。

 生糸はいうまでもなく日本の最大の輸入品で、各地の絹織物産業の発達を促した。近世を通じて生糸は農家副業として普及し、幕末の開港の際は最大の輸出品となり、その地位は一九三〇年代まで揺らがなかった。

 一七世紀の日本が徳川幕府のもとに石高制といわれる農本主義的な封建制を敷き、対外的には鎖国=海禁をしたといっても、国内の商品生産と流通はきわめて活発であった。江戸の封建制を生産物地代段階の後進的な体制と描く学者であっても、物々交換の自然経済としてではなく、活発な全国市場が展開していることを前提に論じている。

 一七世紀後半の日本は大土木事業の時代であった。河川の堤防工事が進み、田畑の開拓が進んだ。農業技術も進歩し、千歯扱きや備中鍬など多くの発明が行われている。それとともに商品生産が増大し、各地に特産品が作りだされた。人口三〇〇〇万人を支える日用品の生産であり、主食の米麦雑穀と別とすれば、食事に欠かせない塩・醤油・味噌・砂糖、酒と煙草、衣料では綿と絹、染料では紅花と藍、灯火材料の油と蝋、さらに紙などが大量に生産され、それが大坂に集まった。

 近畿地方を中心とする棉作は、三〇〇〇万人の人口の日常的な衣服の原料を供給していたが、一八世紀後半からは、その肥料として松前口からもたらされる蝦夷地の海産物(鰊)が使用されており、鰊の漁不漁が綿の価格に反映していた。水車を動力とした糸繰りと織物機械を使用し、大勢の労働者を雇用するマニュファクチュア(工場制手工業)をすでに実現していた。棉作・綿糸紡績・綿織物業は、日本独自の資本主義的発展の指標である。これはある意味では鎖国=海禁体制での最高度の達成である。

 日本では古代以来飴、蜜、甘蔦が甘みの中心であったが、室町時代に黒砂糖が伝わった。これは当時高価なもので、主人が毒物として秘蔵したものを太郎冠者と次郎冠者が食べてしまう狂言「附子」がつくられている。一七世紀に入っても、もっぱら中国・オランダからの輸入であった。中国商人はシャム(タイ)のアユタヤから砂糖を長崎に運んでいた。一七世紀なかばのイギリスの砂糖輸入量は八八トン、日本は九〇~一三二〇トンであった。奄美大島と琉球に砂糖製法が伝わり、これを薩摩藩が大坂で販売、これに刺激されて各地で栽培が普及し、国産化が進んだという。ただし砂糖を茶に用いることはなかった。

 これは嗜好の問題である。たとえば香辛料のうち唐辛子は日本に伝わり、さらに朝鮮へ輸出された。朝鮮では唐辛子を大量に使用するキムチを作り出すが、日本人はあまり好まなかった。日本人はむしろ山葵のような辛さを好んだ。それと同じように茶は、緑茶を好み、砂糖を用いなかった。日本人は嗜好の儀式化も好み、香道や茶道を発達させた。イギリス人のティータイムも同じであるのかもしれない。

 北山・東山の室町文化で成熟しつつあった日本の文化は、安土・桃山文化・近世文化という極彩色で語られるレベルに到達した。さまざまな文化の複合や礼法や様式化の成立も視野に入れると、一つの文明が成立したといってもいいかも知れない。これが京・大坂を中心に築かれたことを考え、未熟な表現ながら上方・町人文明と呼ぼうと思う。かって福本和夫が「日本のルネッサンス」と呼んだことを想起しつつ、最近の論者が「徳川文明」と呼ぶことに批判的な命名である。


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 進んだアジアと遅れたヨーロッパ


 さて和辻的な鎖国観の背後には、遅れたアジアと進んだヨーロッパという認識がある。この主張は、明治以来ヨーロッパの学問を学んだ学者たちの共通の認識であるが、アジアが鎖国をしていたから遅れたという和辻の主張も、その所産であろう。これはウィットフォーゲルというドイツの学者のアジア停滞論と共通する認識である。

 この認識は、ギリシアの歴史家ヘロドトスの『歴史』までさかのぼる。ギリシアがペルシアとの戦争に勝ったからといって、アジアのヨーロッパに対する「歴史的敗北」とは、馬鹿馬鹿しい限りである。二五〇〇年前のことである。その後に西ヨーロッパはゲルマン諸族によりローマ帝国は滅亡し、そのゲルマン諸族が中世社会の暗黒時代が到来する。まだヨーロッパは地中海世界を除いて、世界史の上に姿を現わしていない。

 ゲルマン民族の後裔たちが、ルネンサンスをするのは、アラビア文化のお蔭だということは、世界公知の事実である。アラビアに保存されていた古典古代の文明と、中国やインドの文化を総合したアラビアのすぐれた科学と人文学を吸収して、ヨーロッパはようやく文明への第一歩を歩みはじめたのである。

 ルネサンス期の発明と称する紙、羅針盤、火薬のどれもが、最初は中国で発明され、アラビアで改良されたものである。アルではじまるアルコールやアルデヒトといった化学薬品も、アルジェブラ(代数学)もアラビアの科学である。ヨーロッパ人が起こした十字軍は、アラビアの富と文化を掠奪する蛮族の侵入であった。

 しかし平時にはアラビア人(ムーア人という)が支配するイベリア半島のコルドバ大学(現スペイン)への留学によって、古典文明と科学を学んでおり、これがゲルマン人たちの後裔の文明開化=ルネサンスを生みだした。コルドバ大学はアフリカ中部にあったガーナ帝国(今のガーナよりはるかに北方の大帝国)と、教授を交換していた程であるが、かって暗黒大陸といわれたアフリカ文明も見直す必要がある。ヨーロッパ人は、アラビアを蔑視していながら、内心は畏敬の念を持っていると云われているのは、この点と関わっている。

 ヨーロッパに対するアジアおよびアラビア文明の優位については、かって飯塚浩二氏が、『世界のなかのアジア』(一九六〇年)、『東洋史と西洋史の間』(一九六三年)、『東洋への視角と西洋への視角』(一九七七年)などで繰り返し強調されていたところである。

 これは歴代中国王朝を悩ませた北狄とされた匈奴や鮮卑、モンゴル族などの北方諸民族と同じではないか。かれらは武力(馬と鉄製武器)に優れていたが、中国に侵入し、文明の諸物資を略奪し続けた。「戦争は文化の母」というが、正しくは武器の優位が手っ取り早く、優位の文明を略奪できるからである。戦争で文化を奪って来ればいいのだから。

 まさしく一八世紀までは、ヨーロッパは世界の辺境であり、後進地帯であったのである。それがなぜ逆転したのか。


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 徳川幕府の平和


 しかし徳川幕府の鎖国政策、最近の表現では海禁政策は、この上方・町人文明に対してどのような役割を演じたであろうか。

 海禁は国家権力による貿易独占体制であり、人民の自由な往来と交易は禁じられた。そのために海外からの刺激は緩やかな、微かなものになった。新しい文物と知識は武士階級の上層部が独占し、町人や農民・漁民・山民の創造力と活力に数々の制限を設け、一定限度に囲い込んだ。とりわけ士農工商えた非人の身分制度は、人々を分断して対立させた。

 ノエル・ペリンは『鉄砲を捨てた日本人』(一九八四年)で、世界史上稀な軍縮を二度も行った日本人を称賛している。一度目は近世初期の鉄砲の放棄と刀剣への後退、二度目は第二次大戦後の憲法第九条の戦争の放棄である。二度目の軍縮の虚構の実態を知るわれわれとしては、いささか面はゆい。

 たしかに近世には、大坂陣後の元和堰武が実現し、以後大名の軍役は、島原の乱を除いて発動されることがなく、銃砲の武力はいちじるしく形骸化した。銃は唯一実用としては、猟師の猟銃として用いられるのみであり、軍事力としては緩やかに退化した。徳川幕府の圧倒的な軍事力の前に諸大名は沈黙し、反乱のきざしもなくなった。それによって実現した平和を「徳川の平和」と呼ぼう。


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 しかしこの「徳川の平和」は、幕府の圧政と非人道的な身分差別に見られる硬直した体制であった。その許容範囲のなかで、庶民はかすかに呼吸していたに過ぎない。そうはいうものの、庶民の営々とした努力と創造力が、「徳川の平和」を豊かな文明社会たらしめていたが、それも時々噴出する領主や役人の暴政によって破壊された。毎週のテレビ時代劇が描く程ではなかったにせよ、支配者の不正と強権がまかり通っていたのである。

 「新儀停止」というのは、一切の創造的な試みに対する弾圧である。この体制のもとでは、前年同様なのが賞賛されるべきことなのであり、生活リズムの単純再生産が繰り返された。武士社会にあっても門閥制度によって、多くの才能が無駄にされた。福沢諭吉は「門閥制度は親の仇でござる」といったが、

 第二次大戦後の冷戦を「パクス・ルッソ・アメリカーナ」(米ソ間のみの平和)という。たしかに米ソ間は時には瀬戸際まで対立しつつも、時には協調して、ついに第三次大戦は起こらなかった。しかしその間に東側では非人間的な社会主義体制が維持され、これを倒そうとする新しい動きが抑制されつづけ、西側でも一部の地域で反共を大義名分とする軍事独裁政権が維持されたり、民族独立が抑制され、さらには飢えと貧困が放置されてきた。アメリカ自身が失業・麻薬・犯罪の王国となってしまった。米ソは協調して諸矛盾に目をつぶってきたのではないのか。

 同じことが「徳川の平和」についても言えるのである。鎖国ないし海禁は、二六〇年間にわたる平和をもたらしたが、それは人間の尊厳を犯し、進歩を抑制した非人間的体制であった。

 しかしそのもとでも、物産と情報の流通を推し進め、圧政の隙間をかいくぐるように創造力を発揮し、文化を高めてきたのは、庶民の力であった。上方・町人文明はやがて武家都市江戸を席捲していくのである。

  参考 和辻哲郎『鎖国』(筑摩書房 一九五〇年)


 
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