文学・芸術

『マルドロールの歌』 (3)

 ←『マルドロールの歌』 (2) →而今(じこん)の葡萄
『マルドロールの歌』 20120919





  『マルドロールの歌』 (3)


 これから君たちが聞こうとしている、まじめでクールな一節を、ぼくはのぼせあがることなく、しかし大きな声で読み上げることにする。君たち、その内容に用心しろ。そして、かきみだされた諸君の想像力のなかに、まるで罪の烙印のようにやきつけられるだろう苦々しい刺激から身をまもれ。ぼくが死にかかっている、なんてことを信じていてはいけない。ぼくはまだ骸骨ではないし、額に老いがはりついているわけでもない。だから瀕死の白鳥とくらべるような、そんな考えはきっぱりと捨て、君たちにはそれを見ることができないのでぼくが喜んでいる、一匹の怪物しか目のまえにいないものと思え。しかしその怪物の姿も、その魂ほどにはおそろしくない。

 ところでぼくは犯罪者じゃない……、こんな話はもうたくさんだ。ぼくが海を見、そして船のブリッジをふんだのは、それほど昔のことではない。その記憶はまるで、昨夜のことのようになまなましい。それにしても、君たちに捧げようとしたことをすでに後悔しているこの朗唱を、できることなら君たちもぼくのように冷静にうけとめ、それにくらべれば人間の心はどうだなどと考えて、顔をあからめたりしないでくれ。

 おお絹のまなざしをもつ蛸よ! 君の魂がぼくのそれと不可分である君、地球の住民のなかでもっとも美しい君、四百もの吸盤のハレムに君臨する君。きさくでやさしい美徳と神々しい優雅とがみんなにみとめられ、断たれることのない絆にむすばれて、まるで生まれたときからの棲家のように、上品に同居している君よ、君はなぜぼくとここに、いっしょにいないのか。君の水銀の腹を、ぼくのアルミニュームの胸にかさね、浜辺の岩に二人してすわり、ぼくのあこがれの光景を、ともどもにうち眺めるために!

 古き大洋よ、水晶の波もつおまえは、見習い水夫のぶたれた背中の青あざに、正比例的に似ている。おまえは地球の身体にはりつけられた、広大な青だからだ。ぼくはこの比喩が好きだ。このようにおまえの第一印象から、心地よいそよかぜのつぶやきだと人が思い込んでいる、悲しみをひきずる息吹が、ふかくまでゆすぶられた魂に、消すことのできない傷あとをのこして去っていき、そして苦しみがそこからはじまって居座ってしまう、人類のつらい誕生を、おまえはいつも気づかれないうちに、おまえの愛人たちの記憶によみがえらせてしまう。ぼくはおまえに頭がさがる、古き大洋よ!

 古き大洋よ、おごそかな顔の幾何学をうれしがらせる、調和にみちたおまえの球体は、その小ささではイノシシのそれにそっくりで、その輪郭の完全な丸さでは野鳥のそれにそっくりの、人間のあのちっぽけな二つの目玉しか、ぼくには想い起こさせてくれない。それなのに人間は、前世紀をつうじて自分が美しいと思いこんできた。人間は自己愛にたよることでしか、みずからを美しいと思えないのだと、ぼくは想定している。でもほんとうは美しくないんじゃないかと、人間自身もうたがっているのだ。だってそうじゃなければ、なんだって人間は、侮蔑のまなざしをあんなに、同類の顔にそそぐのだろう? ぼくはおまえに頭がさがる、古き大洋よ!

 古き大洋よ、おまえは自己同一の象徴だ。いつもおまえそのものだ。どこかでおまえの波が猛り狂っていても、そこからとおくのべつの区域では、まったくのベタ凪だ。おまえは人間のようじゃない。というのも人間は、たがいの首に咬みついた二匹のブルドッグを見るためには道でたちどまるが、葬式行列に出合ってもたちどまらない。人間は朝には上機嫌で晩には不機嫌、今日は笑って明日は泣く。ぼくはおまえに頭がさがる、古き大洋よ!

 古き大洋よ、おまえの胸に人間の未来に役立つものをかくしておくことに、不可能なことなどこれっぽっちもない。それなのにおまえはもう、人間にクジラを与えてしまった。だが自然科学の貪欲な眼が、おまえの秘密のシステムにひそむ数千の謎を見破ろうとしても、おまえはかんたんには許さない。おまえはじつにおくゆかしい。人間は、つまらないことでもたえず自慢するというのに。ぼくはおまえに頭がさがる、古き大洋よ!

 古き大洋よ、おまえがやしなっている魚たちのさまざまな種族は、おたがいに友愛を誓いあったりはしない。それぞれがそれぞれに生きている。種族ごとに異なる気質と形態とは、はじめは畸型としか思えない場合にも、やがては納得のいくように説きあかしてくれる。人間もおなじことなのだろうが、魚たちとおなじ理由では説明できない。地球の一角が三千万人の人間に占拠されてしまうと、やはり大地のかけらに根を下ろしたと思い込んでいる隣人たちと、絶対にまざりあってはならないと、人間どもは思い込んでしまう。

 大から小まで人はみな、それぞれが未開人のように穴のなかでくらし、おなじようにべつの穴にうずくまっている同類を訪ねることさえ、めったにしない。世界の人類みな兄弟などというのは、凡庸きわまりない論理にふさわしい、たんなるユートピアにすぎない。それはともかく、おまえの豊かな乳房を見ていると、忘恩の概念がわきあがってくる。みじめな自分たちの結合の果実を棄てさる、造物主にたいしてたっぷりと恩知らずな、ぞろぞろいる親たちのことを、ようく考えてみろ。ぼくはおまえに頭がさがる、古き大洋よ!

 古き大洋よ、おまえの物質的偉大さは、おまえの総量を産み出した活動力が創ったものさしでしか、はかることができない。ひとめでおまえを見渡すなんて、とても無理だ。おまえをしっかり見ようとすれば、水平線の四点に望遠鏡をなめらかに、ぐるりぐるりとまわさねばならない。それはまるで、数学者が代数の方程式を解くときに、スパッと答えを出すまえにあらかじめ、いくつかの可能な答えをべつべつに、検討しておかなければならないのとそっくりだ。人間どもは滋養のあるものをくらい、よりよい境遇にふさわしくでっぷり太っているのを他人に見せようとして、さらにそのうえに努力する。好きなだけふくれるがいい、この大蛙め。心配するな。そいつはおまえとおなじ大きさになれはしない。すくなくともぼくはそう思う。ぼくはおまえに頭がさがる、古き大洋よ!

 古き大洋よ、おまえの水はにがい。それはまちがいなく、批評が美術に、学問に、そしてあらゆるものにたらす胆汁と、まったくおなじ味がする。批評は、もしだれかが才能をもっていれば彼を白痴にしてしまい、もしだれかが美しい肉体をもっていれば、それを醜いものにしてしまう。そんな批評をするのなら、人間の四分の三は自分に咎のある不完全さを、強制的に感じさせられていないと、困るじゃないか、まったく! ぼくはおまえに頭がさがる、古き大洋よ!

 古き大洋よ、おまえは強力だ。それを人間どもは、わが身を犠牲にして理解する。そして自分たちの才能のあらゆる源泉をつかいはたす……、がおまえを支配できない。彼らのほうが支配者をみつけた。つまり、自分たちよりも強いものをみつけたのだ。それは一つの名をもつ。その名、それが大洋だ! おまえが彼らにひきおこす恐怖が大きいので、彼らはおまえをうやまう。うやまわれてもおまえは、彼らのもっとも重い機械に、やさしくエレガントに、そしてやすやすとワルツを躍らせる。おまえはさらにその機械を、天上までも飛躍させ、おまえのどん底まで、すばらしく潜水させる。軽業師がやきもちをやくだろう。

 おまえの水性のはらわたのなかへ、線路もなしにもぐりこみ、魚たちがどうしているか、わけても自分たちがどのようになるのか、見てやろうとする人間どもを、おまえが泡立つ襞で決定的に、包み込んでしまわないなら、それはまことにめでたいことだ。人間は言う、「おれは海よりもかしこい」と。それはありうる。かなりほんとうだ。しかし大洋が人間をおそれる以上に、人間は大洋をおそれる。それは証明の必要がないほど明白なことだ。

 この宙吊りのわれらの地球の創世記と同時代人であり、かつ傍観者でもあるその古老は、国々の海戦を見ると、あわれんでほほえむ。ほらほらあれは、人類の手から生まれたえらい数の海獣たちだ。上官のおおげさな号令、負傷兵の悲鳴、砲撃のひびき、どれもこれも、数秒の静寂を消すための騒音さ。おや、ドラマが終わったようだ。みんな大洋の腹のなかに収まったかな。なんというおそるべき口。それは底にいくにつれて、未知の世界にむかってひろがっている!


sui M0820Taihu20Stone2057x20x1420cm


 この馬鹿馬鹿しい、面白くもないコメディーの最後をかざるのは、疲れのために遅れてしまった、空中に見られるどこかのコウノトリの、羽ばたきをとめることもなく、飛びながら叫びはじめるこんな言葉だ。「おや……、なんて下手くそなお芝居だこと! あそこに黒いつぶつぶがあったのに、わたしがまばたきしてるうちに消えちゃったわ。」 ぼくはおまえに頭がさがる、古き大洋よ!

 古き大洋、おお偉大な独身者よ。おまえの粘液質の王国の荘厳な孤独のなかを、おまえが駆け巡るとき、おまえの生まれながらのすばらしさと、ぼくがいそいそとおまえにささげる真実の賞讃とを、おまえはまともに鼻にかけてもよいのだ。神聖な力がおまえにめぐんださまざまの性質のなかで、もっとも偉大なものであるおまえの、おごそかなゆるやかさのやわらかな発散に、うっとりとゆすぶられ、おまえの比類なき波濤を、くらい神秘のただなか、おまえの崇高な表面にとこしえの力を冷静に感じながら、おまえはくりだす。

 それはみじかい間隙をたもち、平行してつづく。ひとつの波がおとろえるとすぐ、もうひとつが高まりつつやってきて、メランコリックな泡のざわめきをたてながら、すべては泡だとぼくらに告げる(人間もそうで、その生きている波も、ひとつまたひとつと単調に死んでいくが、泡のざわめきを残すことはない)。渡り鳥は波のうえに安心して憩い、その翼の骨が空の巡礼をつづけるための、いつもの活力をとりもどすまで、誇りにみちたやさしさでいっぱいの、波のたゆたいに身をゆだねる。

 人間の尊厳がせめて、おまえのそれの反映の具現だったらとぼくはねがう。ぼくはほんとうにそうねがっているし、ぼくのそんなせつなるねがいこそ、おまえの名誉なのだ。無限ということのイメージであるおまえの心の大きさは、哲学者の省察のように、女の愛のように、鳥の崇高な美しさのように、詩人の瞑想のようにかぎりない。おまえは夜よりも美しい。答えてくれ、大洋よ、ぼくの兄弟になりたくないか? はげしくおまえを動かせ……、もっと……、おまえを神の復讐と、ぼくにくらべさせたいのなら、もっと、もっとだ。おまえの鉛色の爪をのばし、おまえみずからの乳房に、ひとすじの道を切りひらけ……、よし。おまえの驚異の波をくりだせ、ぼくだけが理解者であるみにくい大洋よ、ぼくはおまえのまえに身を投げ、ひざまずき、ひれふす。

 人間の尊厳なんぞ借りものだ。畏敬の念などとんでもない。だがおまえはちがう。おお! おまえが進むとき、高くおそろしいとさかを立て、臣下をひきつれるように曲がりくねった襞にかこまれ、霊術師にして獰猛なおまえの波を、つぎからつぎへところがし、自分がなんであるかをしっかりとこころえ、ぼくなどにはうかがいしれない、はりつめた悔恨にさいなまれているかのように、人間どもが岸辺から、安全に眺めていてもふるえあがるほどの、あの重く涯しない咆哮を、おまえは自分の胸の奥底からひきずりだす。そこで、おまえと自分が平等だなどという格別な権利が、ぼくにはないことをぼくは悟る。

 だからぼくは、おまえの厳然とした優越性にふれて、ぼくの愛(美へのあこがれを含むぼくの愛の総量は、まだだれも知らないが)のすべてをおまえに捧げる。もしおまえがぼくに、ぼくの同類をにがにがしいやつらだと思わせないでくれるなら。ところが人間どもは、おまえとは最高に皮肉なコントラストを見せ、神の創造物のなかではずばぬけて、おまえのこっけいな対象物なのだ。だからぼくはおまえを愛せない。ぼくはおまえが嫌いだ。おまえの手にさわってもらうと、ぼくの熱が消えてしまうようだからといって、なぜぼくは、ぼくの燃える額を愛撫してやろうと開かれた、おまえのやさしい腕のなかに帰ってくるのか、何度も何度も! ぼくはおまえのかくされた宿命を知らない。だがおまえのすべてをぼくは識りたい。

 だから言ってくれ、おまえは暗黒の王子の宮殿なのか。言ってくれ……、答えてくれ、大洋よ(幻影しか見たことのないやつらを悲しませるといけないから、ぼくひとりにだけ)、おまえが雲の高さまで水をもちあげる嵐は、悪魔の息吹のせいなのか。おまえはぼくに答えるべきだ。そんなに現世のちかくに地獄があるのなら、ぼくはうれしいからだ。これでぼくは、ぼくの祈りを終わりたい。だからもう一度だけ、ぼくはおまえをたたえ、わかれの言葉をおくりたい!

  水晶の波もつ古き大洋よ……、ぼくの眼はとめどなく流れでる涙にくもり、ぼくはもう書きつづけられない。そろそろけものづらの人間どものあいだに、帰るときがきているのにぼくが気づいたからだ。だが……、勇気を! がんばろう。そしてつとめだと思って、この地上でのぼくらの宿命をまっとうしよう。ぼくはおまえに頭をさげる、古き大洋よ!




s-DSCN0837.jpg



  「唇・皺・傷――マルドロールの〈身体なき器官〉」


 『身体のフランス文学――ラブレーからプルーストまで』


 ピエール・ブルデューの日本における研究者として名高い東京大学大学院の石井洋二郎氏の論稿「唇・皺・傷――マルドロールの〈身体なき器官〉」(『身体のフランス文学――ラブレーからプルーストまで』京都大学学術出版会)を紹介する。本論稿はまことに驚嘆すべき刺激的なマルドロール論の一つであると言える。ちなみに、本書は『都市の解剖学』の著者であり表象文化論の注目すべき若手の研究者である小澤京子氏の選書リストの一冊に入っている。

 イジドール・デュカス(1840〜1870)こと、ロートレアモンは今日、19世紀フランス最大の詩人と称され、シュルレアリスムの原典の一つとして『マルドロールの歌』は位置付けられる。しかし、生前彼は無名であり、二十四歳の若さで逝去した。本作は散文詩でありつつ、戯曲、小説などの形式もキメラ的に配合されており、あらゆるジャンルを拒絶する点でも特異な作品である。以下に、石井氏のマルドロール読解の中核となる幾つかのテーマを抽出する。

 【傷A、あるいは唇】

 ロートレアモンにとって、「唇」とは「傷の両縁」を意味する。それは顔面の中で唯一開閉可能な器官である点で、唯一の「傷」として規定される。堕天使であるマルドロールは笑うために自身の唇を切り裂き、大量の血を流すが、その姿を他の人間と比較して、自分が決して「笑っていない」ことを発見する(第一歌第五章)。また、「唇」=「傷」という等式が成立する限りで、「キス」は「傷口と傷口を押し付け合う行為」を意味する。唇――それは身体の内部と外部を交通させる「開口部」、「孔」である。また、マルドロールにとって、他者に毒を注入するための幻想的な器官である。

 【傷B、あるいは皺】

 マルドロールの額には「緑色の皺」が存在し、これは悪のスティグマ、ないし恥辱の痕跡であるとされる。これは堕天使である彼が志向存在から傷つけられたことを示す身体記号であり、この「皺」もやはり特権的な「傷」に他ならない。なぜ、しかし額なのか? これに対し、ロートレアモンは端的にそこが「目につき易い」点と、アポカリプスに登場するかの大淫婦の額にも、「秘められた意味の名」が刻まれているという共通項を挙げている。

 【身体なき器官/グロテスクと美の交叉配列】

 18世紀にドイツ美学でテーマになった美的範疇論において、「美」の対立項は「醜」である(デッソワー)。しかし、「醜」も美的範疇である限り、「美」の開示にとって必要な操作子に他ならない。ロートレアモンもこれを本能的に嗅ぎ取っており、マルドロール的身体においては「醜」が「美」として表現されている。そして、「醜」の場は身体記号としての「皺」、「唇」、「畸形」、「傷口」などに集中して表現されている。

 ロートレアモンの作品では、至高存在が「一本の毛髪」と化したり、額や唇、皺などの特定部位への極端なまでのフェティシズムが表出している。こうした身体の「部分」への狂熱を、石井氏はジジェクのコンテクストとは異なる意味で、ドゥルーズ&ガタリを慣用しつつ「身体なき器官」と呼称する。

 更に、石井氏は本論稿で、griffer(ひっかく)という言葉は、griffoner(殴り書きする)行為の本質であると述べている。つまり、エクリチュール(書く行為)は、マテリアルな次元で紙をペン先で「ひっかく」行為である以上、一種の「自傷行為」的な現象なのだ。

 我々が何か自身の魂の地下水脈にまで降下したテクストを生成させる時、常に血肉を削るような痛みを感じるのも、griffer/griffonerの語義的類縁性から解釈することができるだろう。「作者」とは、マルドロール的な表現を借りれば、いわば「二つの傷、A(唇)、B(皺)」を有する「女体(テクスト)」の「皮膚」上を這い続ける「ハイエナ」に他ならない。(Posted by Suzumura Tomohisa)


 
スポンサーサイト



もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 
もくじ  3kaku_s_L.png 愛娘 Erika
もくじ  3kaku_s_L.png やきもの
もくじ  3kaku_s_L.png 余白の人生
もくじ  3kaku_s_L.png 忘れえぬ光景
もくじ  3kaku_s_L.png 文学・芸術
もくじ  3kaku_s_L.png 雑学曼陀羅
もくじ  3kaku_s_L.png 時事評論
もくじ  3kaku_s_L.png 教育評論
もくじ  3kaku_s_L.png 書画・骨董

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。
  • 【『マルドロールの歌』 (2)】へ
  • 【而今(じこん)の葡萄】へ