雑学曼陀羅

美しさの尺度

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エリカは自然のままで~す。人間で言えば70歳になりま~す。




 身体改造願望は人しだい? 


日本では、いま韓国ドラマブーム最盛期である。
なるほど、内容も筋書きも、親を大切にする儒教の精神、人間性、過度の演出を控えた清潔感、ユーモアとペーソスにあふれ、なかなか見応えがある。むかしのテレビドラマに似ている。
テレビ局が安価に仕入れることができることも原因のひとつだろうが、和製のドラマも見所が少なくなり視聴者が離れていることも後押ししている。

ところで、韓国では、顔や身体の整形が幼いときから流行っていると聞く。
そんなにまでして、人はなぜ身体の改造を望むのだろうか。

生物界では、配偶者獲得のために最大の自己アピールをして結ばれた同志が次の世代を残していく。
種の保存という自然の摂理にかなっている。だが、からだの改造まではしない。
服装、化粧、装身具による変身願望は、原初以来のものでまだ摂理を踏襲している。
美しく変身したい、美しいものへの願望は、人間を含めた生物の根源的欲求である。

人類にだけ観られるこの身体改造の特質を探ってみたい。

身体改造とは、自らの肉体を意図的に変形ないし切削する事で装飾する。この様式の成立は古く、石器時代にも遡るとされ、古いものでは意識的に付けられた傷(瘢痕)もこの部類に挙げられている。
民族学の分野では「身体変工」と呼ばれ、宗教(シャーマニズム)的なものから純粋に美意識に基く装飾、昔も今も特定の人や若者に人気があり、身体の一部に入れ墨を施す「タトゥー」まで、様々な様式が見られる。

人工的に肉体を変形させる事で、所定の美意識に沿った物とする事や、または他人との違いを顕在化させることを目的とし、伝統的なものでは極端に変形させる努力をはらって形を変えた肉体ほど、美しいとされたり社会的地位の獲得に役立った文化なのであろう。


 国をあげて奨励した中国清代の纏足

纏足(てんそく)とは、幼児期より足に布を巻かせ、足が大きくならないようにするという、かつて中国で女性に対して行われていた風習をいう。

現代では、幼児虐待とも取られかねない独特の風習であり、現代の人権や性差別の視点から見れば、糾弾される、忌まわしい慣習であった。

 纏足の起源

纏足の起源は諸説いろいろあり、はっきりしていない。

代表的な説が、五代南唐説である。これは、李煜(リイク)(在位961~975年)という南唐最後の君主が、繊細なスタイルをした踊りのうまい宮女である窅娘(ヨウジョウ)のために、高さ二メートル足らずの黄金の蓮の花を作らせ、それを宝玉で飾った舞台を造った。次に、窅娘の足を布で縛って細く小さくし、足の指先を曲げて、新月の形にさせた。最後に白い靴をはかせて、この台の上を舞いながら歩かせた。このとき彼女が絶賛を浴びたことで足を小さくする纏足が始まったという説がある。


 纏足の魅力

纏足の魅力は、一つは、一種の美容術でハイヒールと同様足を小さく見せて、スタイルを美しくし、腰部を発達させて性的魅力を発達させることにある。ハイヒールとの違いは、ハイヒールは、脚線美を強調しているが、纏足は、複雑に覆われていて外部からはまったく見えないこと、そこに何があるのかと興味を引くという隠された足に魅力があるという点である。

また、もう一つの纏足の魅力は、「玩蓮」と呼ばれる官能の開発である。これは、纏足によって男性の性感を刺激するというもので、それは、聴覚に訴えるものが一つ、「聴」と呼ばれるもので、纏足の足音を聞くというものである。視覚に訴えるものが四つで「矚」「窺」「看」「視」と呼ばれるもので、「矚」は纏足を遠くから、下から眺めるというものである。「窺」は、盗み見するとうもので、「看」は、見るというもので、「視」は細かにみるというものである。

これだけでも、纏足がいかに男性にとって性的な魅力があったということがわかるが、さらに、嗅覚にうったえるものが一つ、触覚にうったえるものは四十六ある。ただし、だぶるものがあるので、全部で四十八もの官能の開発があったという。このように、纏足をした足は、性的用具としての役割を果たしていた。


 纏足の意味

纏足の意味は、中国の四大奇書とされている明代の性愛小説『金瓶梅』にも記述されており、
纏足をした足は、女性側にとっては性的アピールの部位であり、誘惑の手段であった。男性側からは、求愛の手段に使われていたのである。これらのことから、纏足をした足が、中国の男女にとって性的な意味を持つ部位であった。

このように、纏足とは、激痛を伴う身体加工の一種であるが、女性側から見てスタイルをよく見せようとする一種の美容術であり、性的アピールの部位であったこと、男性側から見て性感を刺激する性的用具としての側面があったことが分かり、性的な部位であったことが分かる。


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 纏足の普及と終焉

纏足が普及した直接的原因とされるのは、宋代の新儒教主義である。この新儒教主義は、異民族進入による国粋主義の盛り上がりで起こり、女性が家庭へ閉じこもることをすすめる家訓や家規の類が流行し、女性を家庭へ閉じ込める纏足も普及することとなった。

明代にも、北虜・南倭といって北方の韃靼・南方の倭寇に手を焼き、国力の消耗を招き、国亡の一端となった出来事があった。この時も、この韃靼・倭寇が略奪や強姦を繰り返したため、女性は貞操を守ることが強調された。この民族の危機を契機とした国粋的な礼教の強調により、纏足はより盛んになった。明代になると、纏足は、美人・結婚の条件となっている。

清代に入ると、「纏足狂時代」と呼ばれる最も纏足の盛んな時代に入る。この時代は、貞操の奨励も狂気じみたものとなり、夫や許婚が死亡した場合や、男にさらわれた場合にも女性は死ななければならなくなっていた。そのため、結果的に女性を家庭に閉じ込める纏足がより盛んになった。

しかし、清代は満州族が建国したため、満州族皇帝は漢俗である纏足をよく思っていなかった。そのため、康煕三年以後も満州族婦人には、纏足を禁止する厳令が出されるが、満州族の女性は、足は縛らなくとも日本の舞妓の履く靴のような下が細くなった高底靴を履き、漢族女性の纏足の歩き方を真似ていた。満州族の女性にも纏足は、魅力的に写っていた。

一方、漢族の間では、ますます纏足が盛んになり、纏足をしないことが、“恥である”とされるまでになった。康煕三年に、纏足禁止令が出されるが、纏足を解くものは少なく、康煕七年には、この纏足禁止令は解かれ、民間では再び公然として纏足が行われるようになった。

このように、纏足は、宋代に普及が進み、明代清代には、纏足が美人・結婚の条件にまで発展し、纏足をしないことが“恥”とされるまでになったのである。

纏足解放が唱えられるようになったのは、変法運動の頃からである。
纏足解放についての啓蒙には、二種類あり、一つは中国人の手によるものと、もう一つは、在華ミッション団体によるものがある。

一つ目の中国人の手による不纏足啓蒙の理由は、富国強兵の観点によるもので、婦人の纏足に起因する弱体が、富国蓄積上、生産労働に堪えず、近代産業の需要に応じられなくなってきたこと、母体の虚弱は子女に遺伝し、国民皆兵の立場より見て、ゆるがせに出来ない問題として映ったためである。
しかし、大規模な運動へ発展したものの不纏足が浸透することはなかった。その理由として、纏足していない女性は嫁にいけないという現実的な問題があったからである。

もう一つは、纏足解放の啓蒙団体である在華ミッション団体の手による不纏足運動である。在華伝道団体にはカトリック教会、アメリカン-エピルコパル、ロンドン-ミッションなどがあるが、これらの団体は、纏足の持つ非人道性に着目し、早くから啓蒙・反対運動に乗り出している。彼らは、三つの側面から纏足解放の啓蒙を行った。

一つ目は、キリスト教的人道主義からの啓蒙、二つ目は、医学的観点からの啓蒙であること、つまり纏足の肉体に与える影響を重視し、その恐ろしさを理解させようと努力した。三つ目は、生計妨害からの啓蒙をしたこと、つまり、纏足夫人は挙措動作が極めて不安定で、すべての作業に不向きであり、非生産的で自活するにも不都合であると教示したのである。

また、西太后は、1902年、康有為の改革案を実行に移し、満州人と漢人の結婚の許可と纏足禁止令を出す。纏足に政令による終止符が打たれたが、実際には、この禁止令もあまり効果がなかった。

革命運動のころになると、女性も革命参加者として重要視され、啓蒙されていくようになる。革命派は、女性が封建社会制度から抜け出し、社会的交際と婚姻の自由を獲得することを主張した。孫文は、引き続き女子教育は、国家の衰退と関係があるとして、女性が自活能力を身につけるために女子教育の重要性を提唱した。さらに、纏足のほか、奴婢・妾・娼妓などにも反対している。

1910年代後半からの新文化運動の頃は、知識人たちが女性解放の問題を浮上させている。陳独秀の『新青年』には、「三綱五常」「三従四徳」の封建道徳を批判し、女性の人格の回復が提唱されている。女性の独立を促すため、特に欧米の女性運動の進展を紹介することに努めている。

五四運動の頃には、人民大衆によって新思想が普及していくため、封建時代の遺産である纏足も徐々に解放されていったと思われる。

国民党の北伐軍が登場する頃(1926~1928年)になると、纏足は封建時代の遺産の最たるものであるということで不纏足の布告や宣伝を行った。これは、効果があり、幼女・若い者はほとんど纏足を解くこととなったが、中年以上のものは纏足を解く者は少なかった。

1930年(民国二十年)頃になると、纏足解放の啓蒙がようやく浸透し、纏足が確実に下火となる。この頃になると、纏足禁止が県行政の成績を見る一つの標準にされたり、「外国人に見られると国の恥である」という纏足禁止を勧めるスローガンが使われるようになったためである。

このように、女性は富国強兵の観点から啓蒙され、変法運動の頃から纏足解放の啓蒙が開始されることとなった。革命運動の頃になると民主主義思想からの女性解放が意識されるようになり、新文化運動の頃になると女性への啓蒙もより具体的なものとなる。五四運動の頃になってからようやく女性解放が実践されるようになり、纏足解放が浸透していった。纏足をしていた頃は、纏足をしないことが“恥”であったのが、この頃になると纏足をしていることが“恥”とされるようになり、女性は纏足を解放していった。

現代人からすれば、マゾヒズムといった性的倒錯としか思えないのだが、纏足は中国独特の性文化であったが、文化として根付いた背景には、男にとっても、女にとっても『私権獲得の象徴』といった感が色濃く感じられる。


 国を挙げて奨励する風俗習慣は、どこの国にもある。
 モーリタニアの肥満を美とする風習、南米やアフリカに残る、周囲の動物や鳥にヒントを得た刺青、口・鼻・耳を穿って付ける装身具、くびながの風習など、数えればきりがない。

 しあわせや美しいものの感じ方、捉え方は國、人それぞれあってよい。
 ただ、身体改造までして、薄っぺらな外見の美を求める人たちは、ほんとうにしあわせな人だろうか?

 美しく自然に老いることが、自己の内なるこころの改変であること、に気づいたとき、唖然とするかもしれない。外見を美しく改造すれば、内面も同時に美しくなる。という法則が成立するなら、話は別である。

 ご先祖様からいただいた大切な身体全体が、わたしのアイデンティティにほかならない。

 身体改造などまっぴらご免である。ねえ~エリカさん!? 

 (2013.06.04 アーカイブより) 



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