時事評論
縁なき衆生

縁なき衆生

神仏にすがる必要がない人々、私のように他力本願を必要としない者はどうでもいいことだ。
意外とそんな人種が増えているのかもしれない。
心が傷まない人、現代のように無痛文明の中で快適な生活を送っている人には無縁のことだろう。
宗教による救済の手は、生きることが苦痛で生と死の間で揺れ動き、不幸のどん底にいる人々にさしのべられるものだった。

ところが、現代では物質文明や便利な無痛文明が哲学・宗教に代わり、その役割を果たしている。
特に、一昔前はテレビ、現代はインターネット・スマホの登場で、メディアが衆生のマインドをコントロールできるようになった。

自力本願で生きていけない人々が、苦悩の果てに仏像に救いの光を求め、現世の苦しみを忘れるほど仏像に身を委ねて、我身を法悦のルツボに投げ込む必要は無くなったのである。

無神論者、縁なき衆生の私でさえ聖少女観音菩薩像に出逢って感動して胸がときめいているのにである。
悦んでいいことなのか、哀しむべきことなのか、やがて歴史の流れが証明してくれるだろう。
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