雑学曼陀羅

戦争のアルゴリズム

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 戦争や争いごとの問題解決法


人類の、最大の課題として、だれもがみな平和を希求し、共生・共存共栄を求めてきた。
しかし、残念なことに戦争や争いは止む気配はない。

歴史上、いつもどこかで規模の大小にかかわらず起こっている。
生存競争や経済闘争はまだしも、なぜ戦争は起こるのだろうか?

われわれは「戦争と平和」という二元論的概念を想像するが、
必ずしも、そのような単純な概念ではないようである。

たとえば、宇宙的史観に立って、地球という惑星を一生命体と見なした場合、
70億という膨張するダニのような人類を駆除するために、どのような処置をするだろうか。
地球に、自らを浄化する機能があるということは、生きていて悲鳴を上げていることだろう。
人類が、智慧を得て最高の位に位置する独裁者と驕り高ぶるのは間違いで、一寄生虫に過ぎない。


戦争や争いごとが起こるメカニズムはいろいろあるようだ。

戦争研究家の諸説をいくつか紹介してみたい。
これもまた、99.9%の仮説に過ぎないので鵜呑みにしないことである。


戦争は、通常政治的な現象だと考えられている。民族や宗教やイデオロギーの対立から戦争が起きるとか、石油を手に入れるために戦争が起きるとか、そうした通俗的な説明に満足している限り、近代の戦争の本質を理解することはできないし、戦争を防ぐ有効な手段をも見つけることができない。


太陽黒点数と経済の関係

金利/物価に関する詳細な記録が残っている過去200年ほどの資本主義の歴史を振り返ってみると、金利/物価は50年から60年周期のコンドラチェフ・サイクルに従って、上昇と下降を繰り返していることに気が付く。金利/物価が最も上昇したインフレの頂を山、金利/物価が最も下降したデフレの底を谷と表記すると、コンドラチェフ・サイクルを次のように画期することができる。

第一波動 谷 1789年 山 1815年
第二波動 谷 1844年 山 1870年
第三波動 谷 1896年 山 1920年
第四波動 谷 1949年 山 1973年
第五波動 (現在、谷を形成か?)

コンドラチェフ・サイクルは、太陽黒点数の55年周期に対応している。太陽黒点数が増えると、太陽放射が強くなり、地球上の生物が受け取る太陽エネルギーが多くなる。経済活動とは、生産であれ消費であれ、低エントロピー資源を消費して環境におけるエントロピーを増大することにより、生命システムを維持することに他ならない。そして人間にその低エントロピー資源を提供している主要なネゲントロピーが、太陽である。もっと具体的に説明すると、すべての経済は労働と資本の関数であるが、資本の方は、例えば化石燃料など、過去に蓄積された太陽資源ということもあるが、労働の方は、現在入手可能な食物の質と量によって左右されるので、太陽資源の波動とシンクロナイズする。

近代ヨーロッパ人が太陽黒点を発見したのは1611年で、黒点数の変遷に関しては、1645-1715年のマウンダー極小期以降、詳細な記録が残っている。その記録と照らし合わせると、太陽黒点数の55年周期の山はコンドラチェフ・サイクルの谷の時期と一致し、逆に谷は山の時期と一致する。このことは、資源量の増加はデフレーション、すなわち《物余り・金不足》をもたらし、資源量の減少はインフレーション、すなわち《物不足・金余り》をもたらすことを意味している。

同じことは、太陽黒点数の11年周期(シュワーベ・サイクル)とこれに対応するジュグラー・サイクルについても当てはまる。太陽黒点数とニュージーランドの羊毛生産とGDPの時系列を重ね合わせてみると、太陽黒点数と羊毛生産量は正相関だが、太陽黒点数とGDPは逆相関であることに気がつく。太陽黒点数が減少すると、牧草が育たなくなるので、羊毛の価格は上昇し、輸出金額が増え、景気がよくなるのだ。

資本主義社会の危機と前資本主義社会の危機の違い

現代の資本主義社会にとってインフレよりもデフレの方が脅威である。1973年のオイルショックをきっかけに顕在化したインフレは、確かに生活苦を私たちにもたらしたが、1990年のバブル崩壊後に顕在化したデフレは、それ以上に悩ましい生活不安を私たちにもたらした。一般に、社会が危機に直面すると集権化と技術革新が起きるが、こうした現象は資本主義社会では、資源量増大=デフレから脱却する局面で見られる。この意味で、資本主義社会の危機は余剰の危機であると言うことができる。

他方、資本主義が成立する以前の前近代社会は、太陽活動が衰え、資源量が減少したときに重大な危機を迎える。17世紀以前の太陽黒点数については、詳細な記録が残っていないのだが、気温の上昇と下降から太陽エネルギーの増大と現象を推測できる。資本主義が成立するまでは(資本主義が成立した時も含む)、気温が下がった時、すなわち資源が枯渇した時に、社会は飢餓の危機に直面し、そしてその危機を乗り越えるために、政治的革命(集権化)と経済的革命(技術革新)を断行する。この意味で、前資本主義社会の危機は不足の危機であると言うことができる。

では、なぜ資本主義社会の悩みの種が豊作貧乏で、前資本主義社会の悩みの種は凶作貧乏なのか。それは、資本主義社会が、大量生産のメカニズムを持ち、投機的な思惑から、消費しきれないほどの大量のストックを作り出してしまうからである。資本主義社会が文字通りのストック型経済であるのに対して、前資本主義社会はフロー型経済である。満腹のライオンは、おいしそうなシマウマが目の前を通っても、将来の飢えに備えて、それを捕獲し、貯蓄するといったことはしない。同様に、前資本主義社会は、消費しきれないほどの大量のストックを作り出して、ためこむということはあまりしない。


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資本主義社会と前資本主義社会の戦争形態

資本主義社会と前資本主義社会で、危機の種類が異なるように、戦争の種類も異なる。前資本主義社会の戦争には、凶作貧乏から脱却するために行われるディスインフレ型戦争が多いのに対して、資本主義社会の戦争には、豊作貧乏から脱却するために行われるリフレ型戦争が多い。鷹は雛を二羽産むが、餌が少ない時は、強い雛が弱い雛をつついて殺す。このように、前資本主義社会では、資源減少局面において、希少な資源を奪い合う形で戦争が起きる。

例えば、1990年から1994年にかけ、フツ族の政府軍とツチ族のルワンダ愛国戦線(Rwandan Patriotic Front)との間で行われたルワンダ紛争は、一般には二つの民族の憎悪が原因と思われているが、ジャレド・ダイアモンドによれば、人口密度が高くなりすぎて、人口を減らさざるをえなかったのが実情で、同じようなマルサス的状況は、かつて、イースター島やマヤ文明などでも起きた。 [Jared Diamond:Collapse: How Societies Choose to Fail or Succeed]

これに対して、資本主義社会では、その高い生産性のおかげで、インフレという物不足の局面においても、餓死者が出ることはまれであるから、戦争する必要は少ない。むしろ戦争をしなければならない時期は、資源増加局面において、資本と労働者数に過剰感が出てくるデフレの時期である。

戦争においては多数の人間が殺される。しかし人を殺す理由が、ディスインフレ型戦争とリフレ型戦争では異なる。インフレ局面においては、需要が供給に対して過大であるから、消費者としての人間を大量に殺して、過大な需要を削減することが求められる。また資源の獲得が目的であるから、敵が所有していた資源を戦利品として持ち帰るという現象がしばしば見られる。

これに対して、デフレ局面においては、供給が需要に対して過大であるから、働き盛りの男性である兵士に殺し合いをしてもらって、労働市場における供給過剰を削減することが求められる。しかし男性労働者は消費者でもあるから、デフレ解消という点では逆効果の面もある。だから、リフレ型戦争では、大量破壊兵器を用いて、人間以上に施設を攻撃し、過剰になった生産設備を削減することに力が注がれる。

湾岸戦争やアフガン空爆を見ても明らかなように、現代のリフレ型戦争では、生産拠点の破壊が主で兵士の殺戮は従である。特に、純粋な消費者である女性や子供を殺したりすると、たとえそれが誤爆によるものであっても、国際社会の強い非難を浴びるが、それはデフレからの脱却というリフレ型戦争の本来の趣旨に反するからである。捕虜の扱いも異なる。前近代的なディスインフレ型戦争では、捕虜を皆殺しにしたり奴隷にしたりしたが、近代的なリフレ型戦争では、そうした消費を減退させることは行われない。このことは人権意識の向上とかヒューマニズムとかで説明されることが多いが、要は、資本主義社会では、人口の削減が戦争の第一の目的ではなくなったということなのだ。

戦争の原因は政治ではなくて経済に起因している

こうした戦争の経済的説明に違和感を持つ人も多いかもしれないが、しばしば戦争の原因として取り上げられる戦争の政治的文化的側面は、あくまでも表層的な意識に現れる結果現象に過ぎず、経済的な均衡回復こそ原因として実際に戦争を動かす深層の構造である。だから、「民族・人種・宗教・イデオロギーの対立から戦争が起きる」という通俗的戦争論は皮相である。

戦争における民族・人種・宗教・イデオロギーといった差異化の記号は、サッカーの試合における選手のユニフォームに喩えることができる。ユニフォームを着ないと、誰が敵で誰が味方かわからなくなってしまう。その意味で、試合を戦うには、ユニフォームが必要である。しかしだからといって、「選手は、ユニフォームが原因で戦っている」と言えるだろうか。もちろん、相手のチームが憎くなると、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の論理で、ユニフォームの色までが憎くなるかもしれない。しかしそれは、結果として起きることであって、決して原因ではない。

戦争の原因をどう認識するかは、戦争の防止策にも違いをもたらす。多くの平和論者は「民族・人種・宗教・イデオロギーの対立から戦争が起きる」というユニフォーム原因論に基づいて、「自分と異なる価値を理解する多元的価値観を持ちなさい」「国際交流を通じて相互理解を深めなさい」「かつて戦争した民族と同じ歴史認識を共有しなさい」としたり顔でお説教を垂れるが、こんな方法で戦争がなくなるわけがない。実際、日本のような民族・人種・宗教・イデオロギーの対立がほとんどない島国の内部でも、有史以来多くの戦争が起きたではないか。

そもそも、自分と他者が異質であるという理由だけで、なぜ戦争をしなければならないのか。ユニフォーム原因論では、これが説明できない。従って、ユニフォーム原因論者にとって、戦争は不可解なものに見える。ユニフォーム原因論者は、しばしば「戦争は愚かだ」と嘆くが、戦争の愚かさと思えたものが、実は自分の愚かさではないのかと疑ってみる必要がある。

戦争は合理的な経済の法則に従って起きる。だから戦争を防止するには、その対策は経済的でなければならない。私はこれまで、資源増大局面で、貨幣数量一定を前提に、デフレが起きると説明してきた。しかし、貨幣数量を増やせば、《物余り・金不足》の状態を相対的に解消することができる。人間には、太陽黒点数をコントロールする能力はないが、貨幣数量をコントロールすることならできる。おそらく金融緩和こそ、リフレ型戦争を回避する最も害の少ない方法といえるかもしれない。

参考文献:

安宅川 佳之『コンドラチエフ波動のメカニズム―金利予測の基礎理論』
Jared Diamond『Collapse: How Societies Choose to Fail or Succeed』



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