文学・芸術

辺見 庸

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 イナーシア(慣性・惰性)からの解脱


  資本とテクノロジーが人々を自信たっぷりに支配し、人類史上最も物質的に豊かであると言われるいま、人は不安に克てないどころか正体のはっきりしない不安に押し潰されようとしている。文明という留まることを知らない巨大な車輪の下敷きとなって。

  現代の社会では、あまりにもはやい速度で変化が起こっており、私たちはどこに向かっているのかまったく想像できない。現代は迷いの時代、不確実性の時代であり、この急激な技術革新の時代に、これまで営々と積み上げてきた先人の不易の知恵、目には見えない心の歴史的、文化的遺産を失おうとしている。
これまで理想の旗印であった民主主義社会においても、家族の絆、隣人愛、地域共同体における互助の精神や連帯感などといったものの価値は姿を消しつつある。

  かって市民同士を結びつけていた絆は消滅の一途をたどり、自立した市民とは名ばかりの巨大な虚飾の消費構造にとって代わられている。そこにいるのは、現実のものであれ、虚構のものであれ、満たされない孤独と不安を紛らわそうとして、また、気まぐれでその場限りの欲望を満たそうとして、ただ足掻いている消費者集団だけなのである。


 「映像イメージが現代人の思考力、洞察力を駆逐する」

  映像イメージが論理を駆逐することは大宅壮一氏が、テレビが出現したときすでに「一億総白痴」という言葉で予言している。

  視聴率を上げるために、なりふり構わない刺激的で強烈なイメージ、凶暴残虐きわまりない恐怖のイメージ、日常性を逸脱した狂気のイメージ、興味本位の享楽的退廃的イメージが現代人の思考力を一掃し、圧倒し、論理を無力化している。

  取材や報道のあり方がじつに下賤で、下等である。情報産業という業界は、人の喜怒哀楽、美醜聞をネタに土足で踏み込み、呆れかえるほど次元の低いところで大衆の無知につけ込み莫大な利益を貪る、じつに賤しい業界と思われても仕方がない。

  映像イメージの持つ現在性、刹那性が歴史、哲学を無力化しているのも事実である。一部の誠実な例外をのぞいて、歴史の縦軸というものが意識されていることはほとんどない。 歴史的に大事な事柄がじつに軽く扱われ、視聴者がすぐに飛びつく刺激的な、しかし、歴史的にはさして意味のない事件をのみあたかも大事なことのように伝える傾向もある。

  このような状況の中では、社会全体が非常に強力なイナーシア=慣性によって支配されていく。余談になるが、破防法の団体適用のときの動きも、前段でそのイナーシアを作り上げたのは、いわゆる良心的な市民主義ではなかったのか。意識的であれ無意識的であれ、良心的(悪意なき)知識人は、好むと好まざるとに関わらず意識産業を通じてしか発表の場を持たないため、メディアという意識産業の共犯者となる危険性を常にはらんでいる。

  まさに、いつの世にも、地獄への道には善意というきれいな玉砂利が敷きつめられている。けっして悪意ではない。むしろ善意に満ちた市民主義的な善意が、非常に底の浅い善悪の二分法が、「メディア・ファシズム」というものを生み出している。

  そして非常に短絡的にいえば、そのメディア・ファシズムのファッショ性を無意識に、巧みに、しかも善意を持って隠している「良識」というのが、たとえばあの「天声人語」のようなものではないだろうか。原稿用紙わずか二枚足らずで世界を論じ、善意を論じ、世の中を嘆いてみせる。そこにあるのは似非人間主義的な底の浅いヒューマニズムであり、じつに楽天的な世界像の矮小化にほかならない。

  しかしながら、この伝統的なコラムなるものが、世の中の良識というものを形づくり、堆積して、創造的意識を搾取し、無力化し、イナーシアを全体的に支えている。しかも、この良識は、現状を打破したり、イナーシアにブレーキをかけたり、方向を変えたりするようなものでは決してない。適度の社会批判、多少の反省、それが我々の日常生活にとって最良の策であり、世の中は、さして悪くも特別に良くもない、と自信たっぷりに説いているのである。


 「見えないマインド・コントローラー」

 この世に不可視のマインド・コントローラーがいるとしたら、これは特定の個人ではなく、情報産業というどこにでも絡みつく奇怪な菌糸のようなシステムであり、それによって、無意識に意識を統制されていくのである。

  意識産業の手にかかると、凡庸なありきたりの曲もヒットソングに、カール・マルクスのような偉大な人物の思想も、意味のない空っぽのスローガンになりかわる。その結果、無意識の虚無主義、現状への異議申し立てなど意味がない、いろいろ考えても仕方がない、というニヒリズムの世界に陥り、知らず知らずのうちに意識が収奪され、無化され、慣性の法則(イナーシア)に呑み込まれていくのである。

  ではどうやってそこから離脱するのか。アヘンのような意識産業 、マインド・コントローラーから離脱することなど、まず無理なことであるが、その影響をなるべく薄くすることは可能かもしれない。それには、実像の世界とのつきあい方(直接体験)をできるだけ増やすしかない。メディアというフィルター、仮想現実を織り込んだ虚像、をとおしてしか、ものを考えることができない、実感することができない、という状態ーある学者によれば間接病ーから何とかして抜け出すことである。

  また、メディアの特徴として、次々に起こる事件や問題に、根源的な疑いを差し挟まないようにすることである。たとえば、現代の難病といわれる病気の特効薬が新たに発明され、大量生産が可能になる。すると、メディアはそれを人類史の大きな躍進として報じる。ところが、新薬と大量生産の前提には、おびただしい数の症候群と罹患者の存在がなければならない。だが、そのことについて論じることはなく、捨像していくのである。

  一つの記事の文章量を少なくし、アングルをできるだけ単純化する。その結果、記事の内容を反転したり、敷衍したり、展開したりということを省いていく中で、視聴者とつくり手が一緒になって頭を単純化し短絡化していくのである。



2016 00 トランプ 勝利宣言



 「悪の象徴探しと異端者排除」


  われわれはつい数年前まで東西の冷戦構造の中に生きてきた。それが粉みじんに崩壊し破綻した現在、世界で五十以上の地域紛争が起きている。いまにしてみれば、冷戦の構造というのは、我々が本能的に予感していた世界の惨状を、未然に防止するために講じられた次善の策だったのではないかと思えるくらい見事なシステムのようにも思われる。

その冷戦構造の崩壊の中で、西側=善、東側=悪、ないしはその逆ということで大枠の価値観を重ねていくやり方は完膚なきまで破綻した。その後の世界は、経済の目的なき繁栄と発展が惰性で進行しているような気がする。意識産業は、こうした思想の混迷、精神の貧困をこやしにして肥大化しつつある。資本の本源的蓄積がとうの昔に終わり、現在は意識の徹底的搾取の段階にあるともいえる。

  冷戦時代の象徴的システムが粉々に砕け散ったいまの世界で、非常に誠実に人生や未来について考える人にとっては、絶対的善というものを探すのであろうが、それはあくまで少数派であって、メディアと市民社会が無意識のうちに探すのは一般に、絶対的悪のほうではなかろうか。標的となる主敵が見あたらず、悪がいないからこそ探すのである。

 たとえば、十三世紀のドイツのハーメルンで、百三十人の子供たちが突然行方不明になってしまう迷宮入りの事件が起こる。この事件は「ハーメルンの笛吹き男」という形で、いろいろな作家によって語り継がれてきている。その中で、世の中が、十三世紀のドイツが、この不可解な事件を笛吹き男のせいにしてしまったのはなぜか、という示唆的な設定をしたものがある。

当時、笛吹き男=旅芸人というのは、キリスト教徒を信じない異教徒であり、教会とかコミュニティから差別された賤民であり、悪の象徴たりえたこと。そのために、あらゆる不幸、説明不能の不可解な事件の責任は、すべて異端の徒に転嫁していったこと、などが明らかにされている。では、現代の異端者とは誰を指すのか?

  現代のメディアにおける悪人探し、責任者探しは、このような中世の魔女狩り的解決法と酷似している。ということは、いまのマスメディアの報道や社会評論は、中世的善悪二分法からあまり深まってはいないと言える。


 「言論の自由」に庇護されたメディアの暴力

  法に触れない、法や条例で処罰できないという理由で、見えなくなっている暴力がたくさんある。たとえば、そのひとつがメディアの持つ力である。
一個人や企業、あるいは官庁の運命を左右する力を持っているという自覚と責任のもとに、報道がなされている、と思えないときがある。いったん嗅ぎつけたら、絶対に逃さぬ忠実な猟犬のように、ほとんど集団ヒステリーじみた虐待に近い状態で、獲物を追いつめていく。残された道は、破滅か死のみである。言論による私刑であり処刑である。


 「集中するメディア資本」

  世界経済全般、特に金融界、で起きている激しい生き残り競争「ビッグバン」がメディア界でも起きるのではないかとの懸念は次第に現実性を帯びつつある。米国、欧州諸国においては資本力の強い企業が弱小企業を買収し、系列化ともいえる現象が急速に進展し、メディア関連企業においても、統合、合併が進行している。

  メディアの一極集中の怖さについては、今昔を問わず、社会主義諸国が国家権力を楯にメディアを完全に統制し、国民の思想統制を謀ってきたことを考えると、いまさらその恐怖については述べるまでもない。が、東西の冷戦構造が崩壊し、鉄のカーテンが取り払われ、全世界が巨大資本主義に依存することにより繁栄と発展を遂げようとしている中で、巨大資本は国家権力と融合し、やがてそれを併呑し、人智を越えて一人歩きを始める。

 (辺見 庸著『不安の世紀』より一部抜粋)



 『イナーシアの恐怖 辺見 庸』・・・マイブログより

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