書画・骨董

東大寺鴟尾水滴

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 東大寺鴟尾水滴


この高雅な水滴とバックの翡翠玉獅子香炉が一緒に舞い込んできた。

火災・邪気から家や身を護る骨董品を、思いがけず収蔵するのは実に縁起がいいことだ。

むかし、イシコロが生まれる前に、親父の赴任先の村で大火が発生した。

その時、オヤジは村全体が見渡せる馬頭観音の上に火除け観世音菩薩像を頼んで奉献した。

母は、福石観音に瑠璃観世音菩薩像を依頼して奉献し、現在も遺っている。

家族の歴史や遺伝子は、子孫にもシンクロするのかな。それにしても不思議な現象だ。




a 東大寺鴟尾


「鴟尾(しび)」とは、古代の瓦葺の宮殿や仏殿の屋根の両端に取り付けられた装飾のことです。
瓦・銅・石などで魚の尾の形をつくるもので、当時の履物である沓(くつ)を立てた形に似ていることから、
「沓形(くつがた)」とも呼ばれます。

後世の「鯱鉾(しゃちほこ)」や「鬼瓦(おにがわら)」の原型とされます。


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「水滴(すいてき)」とは、硯(すずり)で墨をする時に水を少量入れるために、容器に風穴と水穴という二つの小さな穴をあけ、少量のしずくを落とす工夫がなされたものを言います。

今日見る水滴は、「東大寺大仏殿」の鴟尾を模したもので、「赤膚焼(あかはだやき)」の窯元・名工の
「尾西楽斎(おにし・らくさい)」に依るものです。


a 東大寺鴟尾水滴


現在も、奈良県大和郡山市高田町に代が継承されています。


a 東大寺鴟尾水滴a


 赤膚焼の歴史

遠く赤膚焼の渊源を尋ぬれば、人皇第十一代垂仁天皇の御代、野見宿禰埴輪の製作を建言し、宿禰の末裔土師の姓を賜りて一族、大和國添上郡伏見菅原の里に蟠居す。また平城京の甍の焼成をなされしも、共に赤膚の地に近く、住古より赤ハダ山周辺丘陵は、良質の陶土を産するを以って世に聞こえたる土地なりき。
中古以来、春日御神供の供御の科とせる赤白土器座も、西の京に置かれたるは、以てこの証となすべき所なり。京洛にも名高き奈良風爐・奈良火鉢もこの座にて製せられし事は、夙に『山科家礼記』にも誌されし事実にして工人をば坏手( つくで) と呼べり。
更に天正の昔。秀吉の弟、大和郡山の城主、大和大納言秀長公。常滑の陶工与九郎を召され、当時流行の茶道具の製作を奨励されしは、郡山の地にて。彼の文人柳里恭は郡山御城下、大職冠の地にて窯を開かれたりしと聞く。

茶道の大家、小堀遠州は、遠州七窯( えんしゅうなながま) を選んだが、赤膚焼もこの一つに加えられ、茶陶としての名が高められし所なり。


a 東大寺鴟尾水滴b


其の後衰徴せるを寛政4 年、名君の誉も高き大名茶人、尭山柳澤保光侯、京より陶工治兵ェらを招き再び赤膚焼の窯業を興さしむ。その頃家中には、青木木兎らの上手出て、町方にも一躍、赤膚焼の名を天下に轟かせしは、名工 奥田木白( おくだもくはく) の出現なり。木白は「諸国焼物模物所」の看板を掲げ各種の茶陶をも焼成し、卓越せるその意匠と技倆をもって、たちまちに他を凌駕す。爾来赤膚焼は、焼物の八宗兼学とも言うべき性を備えたりき。その後、父にも優る名工 奥田木佐や各窯元の活躍ありて、愈々茶陶 赤膚焼の伝統を、後世に伝え得るようになり現在に至る。

奈良 大和郡山 赤膚焼窯元 尾西楽斎
〒639-1132 奈良県大和郡山市高田町117
℡.0743-52-3323



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