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清朝琺瑯に勝る七宝焼伝統技術

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a [七宝焼]n-6 明治期 西欧里帰り 窓絵四面図変わり花鳥図 七宝花瓶 h31cm 93000en~




 清朝琺瑯に勝る七宝伝統技術


a [七宝焼]n-6a 明治期 西欧里帰り 窓絵四面図変わり花鳥図 七宝花瓶 h31cm 93000en~


a [七宝焼] 桃龍文鉢


桃山末期から江戸時代初めには、小堀遠州により登用された嘉長が桂離宮、曼殊院、修学院離宮や大徳寺の襖の引手や釘隠しを泥七宝で製作して京七宝を発展させた。嘉長は伊予(現在の愛媛県)松山の生まれの金工で、京都の堀川油小路に住んでいたと伝えられている。


a [七宝焼]n-6e 明治期 西欧里帰り 窓絵四面図変わり花鳥図 七宝花瓶 h31cm 93000en~


次に、京都の金工師、平田彦四朗道仁(どうにん)(1591-1646)が「花雲文七宝鐔」(つば)に代表される作品を残している平田一派は江戸時代に幕府御抱え七宝師となり江戸で平田七宝として刀剣などの装飾を行った。平田派は1895(明治二十八)年に政府賞勲局の御用達として勲賞の製作に従事した11代目就之まで続いた。


a [七宝焼]n-6d 明治期 西欧里帰り 窓絵四面図変わり花鳥図 七宝花瓶 h31cm 93000en~


江戸中期には京都で高槻七宝が7代続き、同じく京都の吉田屋がこの頃から明治時代まで七宝の製作を続けることになる。また、加賀七宝や近江七宝など京都以外でも独自の七宝が製作された。


a [七宝焼]n-1


幕末天保(1830-44)のころには尾張藩士の梶常吉(カジツネキチ)(1803-83)が活躍、七宝焼と呼ばれる。梶はオランダ船が運んできた皿がすべて七宝であったことに興味を持ち、これを買い上げて研究し尾張七宝を創始、近代七宝の祖と称される。


a [七宝焼]n-3


そして、その弟子の塚本貝助(1828-97)や、無線七宝を考案し日本画の画面を七宝で再現した東京の濤川惣助(1847-1910)、有線七宝で日本画の筆致を生かした繊細な七宝を製作した京都の並河靖之(1845-1927)などが、明治初年来日したドイツ人学者のワグネル(1830-92)が開発した透明釉薬の技術を取り入れ七宝の技術は飛躍的に発展した。そして、名古屋の安藤七宝の創始者である安藤重兵衛(1876-1953)や京都の錦雲軒稲葉の創始者である初代稲葉七穂(1851 - 1931)らにより盛況を呈した。


a [七宝焼] c-6 清 乾隆帝 琺瑯彩藍料山水把壺 台北故宮博物院


欧米で高い評価を受けた工芸品を外貨獲得の重要品とみなした明治政府は職人を支援し、万国博覧会などを通じて欧米へ盛んに輸出し、ジャポニズムブームの一翼を担った。職人も競って技を磨いたことから日本の七宝技術は劇的な進化を遂げ短期間で世界の最高峰となり、1880年から1910年の明治期日本の30年は七宝界の黄金期と呼ばれている。その後、世界大戦勃発により需要がなくなり、衰退していった。


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明治黄金期の西欧輸出品の中で、里帰りした七宝には目を見張るものが多い。



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