時事評論

無言の愛 透明な愛

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0 k ★弄石庵★ 老太湖石b 明代 水石 h55 w15 14cm 4.2kg 135000~




 無償の愛 透明な愛


 以前、上司から、遠回しの表現であるが、私は冷たいという意味の説教を受けたことがある。話を聞くと、酒だとかカラオケのつき合いがよくないし、たまにいったとしても、ほとんど物静かにしているだけだというのだ。なぜもっと、仲間と馬鹿話でもして交流できないのか、というのである。

 彼の感覚からいえば、人付き合いを濃厚にして、開けっぴろげな交わりをするところに、人間的なあたたかみがあると考えているように、私には思われた。実際、それがこの社会におけるコミュニケーションの手段として、定着した常識なのであろう。

 けれども、そのようなつき合いだけが、人間のあたたかさの証だとは思わない。人間性や優しさがあっても、口数や語彙数が少なく、シャイな性格で、伝達能力や表現力に乏しい人もたくさんいるのだ。作家でも音楽家でも、どんな職業でも、表に現れたものがその人の人間性を物語るわけではない。

 濃厚な愛情表現をする人があってもいいし、違う愛情表現があってもいいと思うのだ。濃厚な愛情表現は、確かにその雰囲気全体から、たちまち人間的なあたたかみが伝わってくるだろう。

 このタイプの人は、音楽にたとえれば、和音が豊かな曲といえそうだ。和音があると、その音楽は雲のような広がりをもって音に厚みが増し、あたたかみを帯びたものになる。


0 k ★弄石庵★ 老太湖石a 明代 水石 h55 w15 14cm 4.2kg 135000~


 一方、和音があまり使われていない曲は、そういった意味でのあたたかみは感じられない。そのかわり、透明感がそこに現れるようになる。

 そのような音楽は「冷たい」かというと、そうではない。和音を多用しない「透明な音楽」がもつあたたかさは、メロディを土台としている。優美な旋律により、人間的なあたたかさを感じさせる音楽となる。それは和音のように、一瞬にしては理解されず、しばらく耳を傾け、メロディラインをつかんではじめて理解されるものである。

 和音を多用した音楽は、いかにもあたたかみが感じられるが、ともすると、押しつけがましく、暑苦しく感じられることもある。だが、和音よりも旋律にあたたかみのある音楽は、ちょっと聴いた感じでは冷たく思われるかもしれないが、決して押しつけがましさや、暑苦しく感じさせることはない。和音の美しい弦楽四重奏よりも、孤独で深みのあるチェロの独奏が肌に合う人もいる。それはさりげなく、自然である。

 人間も同じではなかろうか。いうまでもないが、開けっぴろげという名目で、酒を痛飲したり、カラオケで馬鹿騒ぎをすることが、愛のやさしさの発露とは限らない。とくとくと説教したり、意見をいったりするだけが愛ではない。

 世の中には、静かで透明な愛というものもある。相手の顔を見つめてあげるだけの愛も、黙って何もいわず、相手の話を静かに聞いてあげるだけの愛もある。母親の無償の愛である。


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 何もいわないからといって、それが冷たいことだろうか? むしろ、何もいわないこと、そのことが、あたたかさということもあるだろう。がんばれ!がんばれ!と激励されて、頑張れない人もたくさんいる。

 そのような愛には、「自分が主役」という意識はない。濃厚な愛を表現する人の中には、ともすると「自分のために」それをしているような人もいる。自分ばかり一方的に話しかけ、「どうだい、私はこんなにも愛情深いんだよ」といわんばかりの人もいる。こういう人は、自己満足のために相手を利用しているにすぎないのかもしれない。

 透明な愛には、相手を利用する気持ちは少ない。「自分」がないということが、その愛に透明感を与えているからだ。もちろん、それは自己の不在を意味するわけではない。さもなければ、相手は孤独を感じてしまうだろう。

 濃厚な和音的愛の持ち主は、存在感を打ち出して前面から相手を抱擁する。しかし、透明な旋律的愛の持ち主は、姿を隠すように、相手の背後から、そっと肩に手をかけるようにして抱擁する。

 残念ながら、このような旋律的な愛は、あまり社会からは理解されない。現代の宗教を和音的愛とすれば、人々から忘れ去られる哲学は旋律的愛なのかもしれない。現代は、連発する安っぽい愛の表現に晒されている。西洋人は、出かけるときも、帰宅したときも、ケイタイ電話でも、I love you を日に何度も要求する。


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 武士道精神の日本男子は、眼で伝えるだけである。グローバル時代にはどちらがふさわしいかはわからないが、離婚率はうなぎ登りに上昇している。

 たいていのことがそうであるように、目立つパフォーマンスや刺激的なアピールの要素をもたないと、なかなか社会からは認められない。仰々しく抱きしめて、声高に「愛の言葉」をまくしたてる人が、「愛の深い人」であると思われる。

 ただ沈黙し、相手の目を見つめて微笑むだけの愛は、認められない。実際には、こういう人はたくさんいると思うのだが、その存在を知られずに、潜んでいるのだ。

 けれども、人生の悲しみと絶望を、心底味わった人であれば、「旋律的な愛」が理解できるようになるのだと思う。なぜなら、真の絶望にあるとき、もはや人は、いかなる言葉でも癒されることはないと思うからだ。かなしみを理解している医者は、「がんばらないで、でも、あきらめないで」と囁くだろう。


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 人が真に絶望と悲しみにあるとき、もしそれを癒してくれるものがあるとすれば、それは「どこまでも透明な何か」であろう。社会の虚飾でごまかされ、汚されていない何かではないだろうか。言葉はともすると、虚飾の温床になる。虚飾のすべてはエゴから生まれる。エゴは必ず何かを搾取して破綻する。

 しかし、もしも誰かが、いかなる意味でも自分から何かを搾取したり、利用しようとする気持ちがなく、自分のためには「私」から何も求めるものがないのに、それでもなおかつ「私」を求めてくれるとき、そこには「透明さ」がある。透明な愛がそこにある。

 そんな透明な愛に触れるとき、たとえ絶望は絶望のままであろうとも、絶望そのものの中に、生きることの意味を見いだすことがある。それは決して言葉では表現できないだろうが、言葉よりも確実な何かなのだ。

 病理学的に分析すれば、現代人は、文明がもたらした言語過多症候群、言語飢餓症候群に陥り、自己の存在感、心の居場所を喪失しているのだ。

 ロウソクは身を焦がしながら周囲を照らしている。やがて燃え尽きたら元の暗闇になる。ニンゲンはロウソクではないのだからそこまで犠牲をはらう必要はない。

 やさしい言葉に飢えている、人間性を喪失した現代は、生きていくのが怖い時代でもある。



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