文学・芸術

『若合一契』 王羲之「蘭亭序」

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s-DSCN3556 河井荃廬 落款 河井荃廬(かわい せんろ、男性、明治4年4月28日(1871年6月15日) - 昭和20年(1945年)3月10日)は、近代日本の篆刻家である。中国に渡り呉昌碩に師事し、金石学に基づく篆刻を日本に啓蒙しその発展に尽くした。




 『若合一契』王羲之「蘭亭序」


z 『若合一契』



「古人云、死生亦大矣、豈不痛哉。毎覽昔人興感之由、若合一契、未嘗不臨文嗟悼、不能喩之於懷。」

 古人云えらく、死生もまた大なりと、豈に痛まざらんや。毎に昔人興感の由しを覽(み)るに一契を合す若し、未だ嘗て文に臨みて嗟悼せずんばあらざるも、之を懷(むね)に喩(さと)すこと能わず。

 古人が感慨を催したその理由を見ると、いつもまるで割り符を合わせたかのように私の思いと一致していて、その文章を読んでいまだかつて痛み嘆かずにはいられず、ただ共感するばかりで、死を痛む我が心をさとし納得させることができない。


 王羲之「蘭亭序」は、書聖王羲之の書として、まことに有名だが、その内容・主題が何か?ということになると、必ずしも、余り理解されていない。というよりも、学界において、このたった324字の文の言わんとする所について、共通の見解がいまだに得られていないといっていい。( Posted by 下定 雅弘 氏 )


 【原文】

 永和九年、歳在癸丑、暮春之初、會于會稽山陰之蘭亭、修禊事也。羣賢畢至、少長咸集。此地有崇山峻嶺、茂林修竹、又有淸流激湍、映帶左右、引以爲流觴曲水、列坐其次。雖無絲竹管絃之盛、一觴一詠、亦足以暢敍幽情。是日也、天朗氣淸、惠風和暢。仰觀宇宙之大、俯察品類之盛、所以遊目騁懷、足以極視聽之娯、信可樂也。(第一段落)

 夫人之相與、俯仰一世、或取諸懷抱、悟言一室之内、或因寄所託、放浪形骸之外。雖趣舍萬殊、靜躁不同、當其欣於所遇、暫得於己、快然自足、不知老之將至。(第二段落)

 及其所之既倦、情随事遷、感慨係之矣。向之所欣、俛仰之閒、已爲陳跡、猶不能不以之興懷。況修短随化、終期於盡。古人云、死生亦大矣、豈不痛哉。毎覽昔人興感之由、若合一契、未嘗不臨文嗟悼、不能喩之於懷。固知一死生爲虚誕、齊彭殤爲妄作。後之視今、亦猶今之視昔、悲夫。故列敍時人、録其所述、雖世殊事異、所以興懷、其致一也。後之覽者、亦將有感於斯文。(第三段落)


 【訳】

永和九年、癸丑の歳、暮春の初め、会稽郡山陰県に集ったのは禊を行うためである。賢者がことごとく至り、老いもわかきもみな集まった。この地には高い山と険しい嶺、茂った林、長い竹がある。さらに清流や早瀬があり、美しい風景の彩りがあたりに照り映えている。その流れを引いて、流觴の宴のための曲水となし、人々はそのかたわらに、順序よくならんで坐った。琴や笛のにぎやかな音楽はないけれども、一杯の酒一首の詩は、これもまた深く静かな思いを述べあらわすのに十分である。この日、空は晴れて空気は澄み、春風がおだやかに吹いている。仰げば広大な宇宙が見え、見下ろせば万物の盛んなさまがうかがえる。こうして、目を遊ばせて思いをのびのびとめぐらし、存分に目で見、耳に聞く喜びを味わうことができる。本当に楽しいことである。(第一段落)

 さて、人はみな、俯仰の間にも等しい短い一生をおくるのだが、胸に抱く思いを、一室の中で友人と向いあいうちとけて語る人もあれば、志の赴くままに、世俗の束縛を無視して奔放に生きる人もある。このように人の生きかたはさまざまで、静と動のちがいはあるけれど、めぐりあった境遇がよろこばしく、自分の意のままになるとき、人は快く満ち足りた気持ちになり、老いが我が身に迫ろうとしていることにもまるで気がつかないのである。(第二段落)

 しかし、やがて得意が倦怠にかわり、心情も事物にしたがい移ろいゆくと、なげかずにはおれない。かつての喜びは、ほんのつかの間のうちに過去のものとなってしまう、これだけでも感慨を覚えずにはおれない。ましてや、人の命は次第に衰え、ついには死が定められていることを思えばなおさらである。古人も「死生はまことに人生の一大事」といっているが、何とも痛ましいことではないか。古人が感慨を催したその理由を見ると、いつもまるで割り符を合わせたかのように私の思いと一致していて、その文章を読んでいまだかつて痛み嘆かずにはいられず、ただ共感するばかりで、死を痛む我が心をさとし納得させることができない。私は無論知っている、荘子が死と生を一つのことだとするのはいつわりであり、長寿と短命を同じとするのがでたらめであることを。後世の人々が現在の我々を見るのは、ちょうど今の我々が昔の人々を見るのと同じであろう。悲しいことである。それゆえに今ここに集う人々の名を列記し、その作品を記録することにした。時代は移り、事情は異なっても、人が感慨を覚える理由は、結局は一つである。後世の人々もまたこの文に共感するにちがいない。(第三段落)
 

 【私の読み方】

 文章の第一段落では、この日、友人・知人が老いもわかきも、みそぎのために蘭亭に集ったこと、蘭亭をとりまく、明るく清らかな風景、楽しい宴のようすが述べられている。
 第二段落では、王羲之の目は、蘭亭を離れて、人生を見つめている。ここでは、第一段落をひきついで、友と語らったり、自由気ままに生きて、老いがせまることさえ知らず楽しむ人生の一時を述べている。

 ところが「及其所之既倦(其の之(ゆ)く所既に倦み)」以下の第三段落では、急に沈鬱な詠嘆に変わり、さらには、必ず訪れる死への悲痛な思いが述べられる。ここでは、「向之所欣、俛仰之閒、已爲陳跡、猶不能不以之興懷。況修短随化、終期於盡(向(さき)の欣(よろこ)ぶ所は、俛仰(ふぎょう)の閒(かん)に、已に陳跡と爲り、猶お之を以て懷(おも)いを興(おこ)さざる能わず。況(いわ)んや修(しゅう)短(たん)化に随いて、終に盡くるを期するをや)」の「猶」と「況」の二つの助字に注意すべきである。「猶」は、楽しかった時が、過去の思い出となってしまう、「それでさえ」の意の助字であり、「況」は「猶」に呼応して、「まして」、長かろうが短かろうが結局は死んでしまうしかない、ということを強調する助字である。「蘭亭序」は、ここで、免れることのできない「死」こそが、大問題だということをはっきり語っている。

 この死生が、とは死が、大問題だというのを受けて、「毎覽昔人興感之由、若合一契、未嘗不臨文嗟悼、不能喩之於懷(毎(つね)に昔人興感の由しを覽(み)るに一契を合す若し、未だ嘗て文に臨みて嗟悼せずんばあらざるも、之を懷(むね)に喩(さと)すこと能わず)」が続いている。この箇所では、「不能喩之於懷」の意味の取り方が問題である。また、「後之視今、亦猶今之視昔、悲夫(後の今を視(み)るは、亦た猶お今の昔を視るがごとし、悲しいかな)」、後の人が今を視るのと、今の人が昔を視るのと、一体何が同じなのかについても、上の「不能喩之於懷」の解が関連していて、必ずしも明確でない。

 つまり、この文章では、どんなに快適な生活を送っていても、いや生活が快楽に満ちているからこそ、人はついに、老い、死んでしまうことへの悲痛な思いが述べられている。明の第一段落と、暗の第三段落とのコントラストが、王羲之の沈鬱と悲痛を色濃く強調することになっている。


s-DSCN3555 河井荃廬 落款


 「蘭亭序」の死生観


 死に真正面から向い、この悲哀を乗り越えることができず、佇立している羲之。これが、「蘭亭序」である。「蘭亭序」の主題をこのように捉えてこそ、中国の文学史の中での、また精神史の中での、それが示す死生観の位置がはっきりする。
 管見では、羲之および「蘭亭序」を、中国における死生観の変遷の中において考察したのは、王瑤と斯波六郎である。

 王瑤『中古文人生活』(1944)は、その「文人与薬」において、服薬の習慣と文人たちの生き方を述べる中で、死に対する悲哀の表現の歴史を、大略以下のように述べている。

 死に対する悲哀をはじめて強く表現したのは、古詩の群れである。そして、建安以後、こうした情緒はますます濃厚となっていく。王羲之は、この死への懼れや悲しみを、はっきりと語った文人である。彼は、荘子の達観を、とうてい我が物として受け入れることはできず、道教の天師道を奉じて、「雅好服食(雅(つね)に服食を好む、服食は丹薬を服用すること)」の生活をしていた。それは、当時の人々の死を恐れ、「延年」を熱望する、時代に共通する思いの現れである。陶淵明の感覚も、依然としてあの時代に共通の感覚である。彼の解脱の方法は「達」である。……しかし、こうした解脱の方法は一種の「無可如何(如何(いかん)す可くも無し)」の方法であり、詩人の心の中にはもとより憂患の情が充満していた。淵明以後、詩の中の死への悲哀の表現は、次第に減少していく。……というのは、東晋以後、仏教の勢力は深く人々の心に入り込み、南朝の名士一族は、王家の天子に至るまで、みな仏法を信じたからである。

 すなわち、王瑤によれば、王羲之の死生観は、仏教が人々の間に広く深く受容される前の、多くの人々の死に対する不安と悲痛を示している、それは当時の知識人の態度として典型的な例である。 

 王瑤の以上のデッサンは、なお、古詩十九首から淵明への変化を平板にとらえすぎているだろう。古詩十九首では、死を悲しむにしても、ただちに刹那的な快楽に逃げて、死を見つめきっていない。淵明は、まさに死をテーマとして格闘した文人で、彼の到達点はもっと高い。  

 斯波は、『中国文学における孤独感』(岩波書店、1958.2)において、さらに緻密に死生観の展開を見ている。斯波は、陸機から王羲之、そして陶淵明という、死生観の展開の流れを提示する。ここでは陸機と淵明についての斯波の論を見ておこう。

陸機の「嘆逝賦」を主な材料としつつ、斯波は大略次のようにいう。
 陸機は、人間の生命を永遠につづく時間の流れの内に諦観している。人間社会は、永久に続くだろうが、個人個人の生涯は速やかに終わってしまって二度とはあり得ない。人がこの世を去るというのは、なんと寂しいことだろう。陸機は、この寂しさを、「よく造物の理を悟って、時の無常を当然のことと観じ、静かに生を養って、世の栄誉を忘れる」ということで、乗り越えようとした。

 陶淵明の死への態度と表現について、斯波は次のようにいう。
 淵明もまた、死への不安と懼れを抱いている。死を痛切に自覚した淵明は、人の命は、はかないが故にこそ、刻刻を能う限り有意義に暮らそうとした。一刻一刻を有意義に過ごすことは、そのまま、かけがえのない一生を有意義に過すことになる。このことに気づけば、流転の相そのままに、すなおに受け容れようとする気持になることができる。淵明は、そのような境地を示している。

 ただし、斯波は周到に付け加える。「寂しさは寂しさとして、悩みは悩みとして、味わいつづけながらに、またそれを超越して、自己の苦悩そのまでも、おおろかに諦観する境地に、達したまでである。……」。 そして、淵明の気持を陸機に比較して、こういう。「淵明のこうしたすなおに死を受け容れようとする気持は、理論的にいえば、さきに述べた、陸機の「嘆逝賦」の終わりの部分に見える趣旨と同じことであるが、陸機のは抽象的な考え方に傾いていたのに対して、淵明のは具体的体験的の味わいがある。」

 斯波によりつつ、羲之の「蘭亭序」の死生観を考えれば、それは、死の問題に真正面から向きあったという点で、古詩の人々が、死を直視することなく、ただちに一瞬の享楽に逃げたのと異なっている。それは、陸機が死の問題をその文学の中心主題としたのと軌を一にしながら、もっと生活と実人生に即しての体験的な感情を露わに表現している。

 陶淵明は、王羲之を一歩進めた。淵明にとっても、死の問題は、もっとも重要な課題の一つだった。そして、彼は、生命が一瞬であるからこそ、生きる今を充実させようとする、積極的な姿勢をしばしば表現し、かつそうした生き方をも含めて、天地万物の永遠の運行代謝の中のひとこまとしての生と死という諦観をも抱くようになった。

 王羲之は、家族や友人とのつきあいを大切にし日頃の生活をこよなく愛する人だった、刹那的な快楽には到底置き換えることのできない深い充実を、王羲之は、生きてある今に感じていたのである。だからこそその喜びと充実を奪ってしまう死に真正面から向きあい、その絶対の事実から目をそらすことができなかった。

 しかし、王羲之は、ついにこの死への懼れ・不安を乗り越える境地を示さなかった。「蘭亭序」は、この懊悩を超克する術を知らず、立ちつくす姿を我々に示している。まさに「後の今を視るは、亦た猶お今の昔を視るがごとし」、「蘭亭序」は、死に立ち向かうその根源性において、中国の死生観の歴史にくっきりときざまれた刻印であるだけではなく、今の我々も共感せざるを得ない永遠の問いを投げかけている。

 ( Posted by 下定 雅弘 氏 )



 下定 雅弘(1947年 - ) 略歴

日本の古典中国文学者(漢文学者)で、岡山大学名誉教授、同大学北京事務所長

大阪府大阪市出身。京都大学大学院中退、鹿児島大学助教授、帝塚山学院大学助教授、教授を経て、2004年に岡山大学社会文化科学研究科教授。2012年定年退任、名誉教授。2013年北京事務所長。

1999年「白氏文集を読む」で京都大学文学博士。六朝・唐代の詩人研究、特に白楽天を専門とする。



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