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青史に名を刻む

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 青史に名を刻む


司馬遷がいつ生まれいつ死んだか、それを知る手がかりは少ない。おそらくライフワークともいえる百三十編もの長編の『史記』を書き終えて精魂尽き果て程遠くない時期に死んでいったと考えられる。ただいえる事実は、彼の死が宦官の死だと言うことである、司馬遷はなぜ宦官であったか、いやなぜ宦官となったか、これは大きな問題である。彼が宦官となったことによってこの壮大な歴史書は完成されるからである。

『史記』は中国の、伝説ともいえる時代から、殷、周王朝、春秋戦国、それから秦王朝、そして漢王朝、それもリアルタイムで『史記』の完成に心血を注ぐ司馬遷と深く関わり合った漢の武帝までに及んでいる。

司馬遷は父司馬談の遺言に従い名を後世に残すことを願ったが、この『史記』を生前に公表していない。その理由は、もし『史記』が武帝の目に触れたならたちどころに禁書、いや、焚書となり後世に残ることもなく、彼自身が死刑を受けるのはもちろんその累が一族郎党にまで及ぶことを考えたからである。太史公書『史記』は密かに娘に託され世に出たのは彼の孫の時代であった。

我が国にこの『史記』が舶載されたのは奈良時代のことで『史記集解』『史記索隠』の書名が記録に見られる。

司馬遷は自分の生い立ちについては太史公自序と死に直面し友人に書き残した「任安に与うる書」の二文以外詳しく記録を残していない。彼の生まれは諸説あるが現在では、前漢の景帝の中元五年、紀元前145年、夏陽(現在の陝西省韓城県の郊外)とされている。

この近くに黄河の渡し場として有名な竜門がある、いわゆる世間に喧伝されている登竜門伝説の生まれたところである。司馬遷は太史公自序に、自分の生まれは竜門と語っているところをみると、登竜門伝説の地を故郷とすることに誇りを持っていたと考えられる。

太史公自序によると、司馬氏の家は代々周の王室に仕え歴史記録や天文観測を司る歴史官の職務についていたという。

そもそも、周時代、春秋戦国時代を経て秦、そして漢王朝の自分の代までを現代進行形で語る記録性に驚かされる。

とまれ、司馬遷の父司馬談は、漢の武帝初年に宮廷に出仕するまで、この夏陽で農牧を営み、少年司馬遷は田畑を耕し牛や羊を追う生活をしていたものと思われる。

周王室の史官としての職掌を司ったという誇りを持ち、天文観測を職務として継承しながら農牧を営む有力地主だったといえる。司馬遷はこの司馬談の薫陶を受けて育てられた。おかげで司馬遷は十歳の頃は四書五経、古代文字で書かれた書を暗唱していたと言われている。


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司馬遷は二十歳になったとき、父、談の勧めで天下遊歴の旅に出る。

天下遊歴の旅といっても紀元前のことである、ましてやヨーロッパに数倍する広大な土地である。交通網も宿場も十分整備されているわけでは無く、現在では考えられない不便と困難を伴っただろう事は十分想像できる。

この天下遊歴の旅は現在の湖北、湖南、浙江、山東、安徽、河南、各省にまたがっている。司馬遷が、この旅から得たものは大である。いろいろな場所で歴史を動かしあるいは歴史に埋もれ確かにそこに生きた人間の存在を発見したであろう。百聞は一見に如かず、一回の旅行は百冊の書にまさるといわれる。けっして書物から得られない見聞で教訓を受けたと考えられる。後に彼が『史記』を書くときこの大旅行で学んだ体験が大きく生かされるのである。

そして、司馬談は死ぬ、死に臨んで司馬談は自分が太史令として果たしたいと願った『史記』の完成を息子司馬遷に負託する。孝とは、名を後世にあげ父母を顕彰することである、それは『史記』を完成することで果たされる。「名をあげよ」と父は遺言する。


父の死後、まもなくして司馬遷は出任する。役職は郎中であった。郎中は天子の身辺を護衛する侍従官で、官職の系列からすると最下位に位置するが、天子のそばに使えることが多く、必然、天子の目にとまる機会が多かった。この天子の目にとまる機会が多かったことが、司馬遷が宦官になる遠因となるのである。

司馬遷が大史令となって八年目、彼の運命を大きく狂わせた「李陵事件」が起きる。


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漢王朝は高祖が国を興して、孝恵帝、文帝、景帝の四代にわたって匈奴に対しては懐柔策をとっていた。武帝は四代にわたる先帝の内治により蓄えられた国力を持って、匈奴に対して制圧の策をとったのである。前127年衛青将軍は霍去病(かく きょへい、紀元前140年 - 紀元前117年)は、前漢の武帝時代の武将)とともに匈奴を制圧する、匈奴は勢力を衰退し、オルドスの地を漢王朝は奪取するのである。

一時衰えを見せた匈奴は、オルドスの奥地で漢軍との正面衝突を避けながら自軍の勢力を養う。そして紀元前107年、漢の使者を抑留し数千人の捕虜を連れ帰るほどの強大な勢力を回復することとなる。

前99年、武帝は匈奴を討つべく李広利に三万騎の兵を授ける。この李広利が当時武帝の寵愛していた李夫人の実兄であったことも司馬遷の運命を変える原因となる。


a 翡翠雕人物像a 清朝 1300000~ 高さ23.2 本体高19.1cm 650g 台103g


そして「李陵」が登場する。李陵は自分が鍛えた精鋭の別働隊で匈奴の側面を攻撃する策を献じる。李陵は歩兵五千人で出撃するのである。

ところが李陵は匈奴の本隊三万に遭遇し包囲されてしまった。初戦、李陵の戦いぶりは勇ましかった。日頃鍛えた弩弓兵がつぎつぎに騎上の匈奴兵を射落とした。その奮闘ぶりは匈奴軍が急遽八万の騎兵を集めていることでもしれる。

匈奴八万騎の騎兵軍団が再び襲う。李陵は死力を尽くして善戦するが衆寡敵せず。とうとう、刀槍矛戟尽き果て匈奴に降る。

武帝の傷心と怒りは大きかった。

ここで司馬遷は運の悪いことに武帝から「李陵事件」について意見を求められるのである。彼は、落胆と傷心の武帝を慰め励ます思いであった、そして宮中全員、李陵を責め謗るなか少しでも李陵の罪を軽くしたいとの思いがあった。

彼は李陵の戦功を讃えつつ弁護する。ところが李陵の戦功を讃えることはその時の匈奴討伐の最高指揮官李広利将軍を批判するものと受け取られた。李広利を批判することは皇帝である自分を批判することと武帝はとらえた。人の情として寵姫李夫人の実兄の手柄を武帝が期待していたとしてもおかしくはない。あがらない戦果に武帝が苛立っていたのかもしれない。司馬遷は武帝の逆鱗に触れた。司馬遷は皇帝誣告の反逆罪に問われたのである。


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前98年、李陵の処断が決まる。李陵の反逆罪と一族の族誅が確定すると、司馬遷の刑も決まった。死刑である。死刑を逃れる方法は五十万銭を積むか、男根を除去して宦官になるより他には道はなかった。宦官として生きるものは人間としては扱われない。要するに人間としてこれを超える屈辱はない。生き恥をさらすのは必定である。しかし司馬遷は生きる道を選んだ。司馬遷がおぞましい宮刑を受けながらなお生き続けようとしたのは、父の遺言の「太史公書」(『史記』)が未完成であったからである。

司馬遷が生きながらえる道を選んで三年目、彼は釈放される。

彼は生きた。名山に蔵して幾千年にこの書を傳え、また人に伝えて天下に流布できるならその時自分の受けた屈辱は償える。その時が来たならばこの身が八つ裂きにされようとも決して悔いることはない。この思いを込めて百三十編、総数五十二万六千五百字の史記は完成する。



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