文学・芸術

『存在の耐えられない軽さ』 ミラン・クンデラ

 ←宮城谷 昌光 →「張り扇史観」  司馬遼太郎
原爆ドーム(文化遺産)
広島の原爆ドーム




 『存在の耐えられない軽さ』とは


今までに読んだ本の中で、大切な一冊がある。

ミラン・クンデラの『存在の耐えられない軽さ』である。

大学に入って、当時最新の日本文学(安部公房、大江健三郎、高橋和己など)を読んでいたときに、本屋で見かけた。

日本人作家も世界的な名声はあるが、クンデラに比べるとスケールが小さすぎる。
今でも、この後遺症は続いているのだが、そんな小さな世界で満足していた自分が恥ずかしかったと同時に、世界にはまだまだこのような小説があるのかと胸が躍った。

「存在の耐えられない軽さ」とは

 ニーチェの永劫回帰の思想で、人生は何度も繰り返されるから取るに足らないほど軽いのか、それともたった一度きりしかないからとても重く重要なのか。軽さと重さどちらが肯定的でどちらが否定的なのかというとこから始まる。

存在は絶対的に美しく善であり、世の中は下品な糞など存在しないかのように振る舞う(見て見ぬふりをする)。こんな美的な理想のことをキッチュ(kitsch独:まがいもの、俗悪なもの)と言い、キッチュとキッチュでないもののは隣り合っていて紙一重だ。そこを人間は運命に翻弄されるように行ったり来たりするだけで、傍から見ると滑稽に見える。この人生の滑稽さが存在の耐えられない軽さの「軽さ」なのだ。

 読んでもらえばすぐわかるように、『存在の耐えられない軽さ』の第1行目には、「ニーチェの永劫回帰という考え方はニーチェ以外の哲学者を困惑させた」と書いてある。

 こんな始まりかたはとても小説の冒頭とはおもえない。いったい何をする気だという感じがする。まして、ニーチェである。けれども、『冗談』も『生は彼方に』も、そして『不滅』も、クンデラはいつもこのように、自分の思索の奥底に揺動するものから、物語を書きはじめるのである。そして次のパラグラフには、こともあろうに「永劫回帰の世界では、われわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある」、つづいて「もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴らしい軽さとしてあらわれうるのである」などと書く。

 クンデラによると、キッチとは「あばたをえくぼと化する虚偽の鏡を覗きこみ、そこに映る自分の姿を見てうっとりと満足感にひたりたいという欲求」(『小説の精神』金井裕・浅野敏夫訳)のことなのだ。

 このキッチの感覚は19世紀のドイツの歴史が生んだもので、多くの者が「近代という非現実的なもの」を信用したがっていた。それは「軽さ」を標榜する感覚だった(日本でいえば「軽チャー」である)。それはそれでいい。しかし、社会主義とその反動に苛まれた激動のプラハに育ったクンデラにとっては、キッチの復権は存在を危うくするものなのである。
 そのためクンデラは、存在(これは社会と関与している)がキッチ(これも社会の中で見捨てられずに立ち上がってきたものだ)によってどのように危うくなるかということを、プラハにひそむキッチを通して書こうとした。

 ほんとうに重さは恐ろしく、軽さはすばらしいことなのか?
男と女の、かぎりない転落と、飛翔。愛のめまい、エロティシズム・・・・
冷戦下の中央ヨーロッパの悲劇的政治状況の下で、
存在の耐えられない軽さを、かつてない美しさで描く、
クンデラの哲学的恋愛小説。

 永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐え難い責任の重さがある。これがニーチェが永劫回帰の思想をもっとも重い荷物(das schwerste Gewicht)と呼んだ理由である。
もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況下では素晴らしい軽さとしてあらわれうるのである。

「だが重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか」。すなわち重さに耐えるというのはもっとも充実した人生の姿であり、逆に軽すぎるというのは自由ではあるけれども意味がないと言うのだ。したがって『存在の耐えられない軽さ』とは「自己の存在の耐えられないほどの無意味さ」を言っているのである。「われわれは何を選ぶべきであろうか?重さか、あるいは、軽さか」と書き手は言う。つまり重さに耐えるか、軽さに耐えるかということなのだろう。

 ☆ ☆ ☆



 テレザには秘められた熱望があった。それは「他のからだと同じような身体ではなく、自分の顔の表面に心という軍隊が船倉から顔をのぞかせるような身体でありたい」というものだ。書き手によるとそれは母親との相剋だそうで、テレザの母親は「全世界が一つの巨大な、身体の強制収容所以外の何物でもない」と考え、娘にもそれを押しつけていた。テレザが、入浴中にいつでも入ってくる義父を嫌って浴室に鍵をかけると激怒するような母親である。身体的な恥ずかしさというのが許されない家であった。

 テレザは誰の身体でも同じであるという母親の世界から逃げ出すために彼のところへやってきた。テレザの身体が唯一つしかない、とりかえのきかないものであるようにと彼のところへ来た。ところが、彼は今テレザと他の女とが等しいというしるしをふただび描いて、誰にでも同じようにキスをし、同じように愛撫し、テレザの身体と他の女たちの身体にまったくいかなる差もつけようとはしなかった。

 これはつまり「あなたは『私』ではなく『私の身体』を愛したのよ」という非難と同じ問題だと思われる。こう言われた男の多くは「???」ではないだろうか。男にとって心と身体は別々のものではないからだ。ちなみにトマーシュの中では、テレザと「性愛的友愛」関係にある女たちとの差は歴然であり、したがって愛人たちの存在はテレザへの愛の何ら妨げになるものではないので、彼女たちとの関係を終わりにすることはナンセンスだと考えていたし、テレザにもそのように説明していた。しかしテレザにとっては身体的な扱いの差が問題だったわけで、その点では確かにいかなる差もないと言わざるをえない。 

 心と身体が別だという意識はテレザの場合は「母親の世界」からきているようだが、私はむしろもっと一般的な話じゃないのかと思う。女の持つ心と身体が別という意識は、「私の身体」が「私の心」とは無関係に「他と同じ単なる身体」として扱われることが実際にあるというところからきているのではないだろうか。それは要するに痴漢に遭ったり強姦されたりという話になるが、自分がそういう目に遭わなくてもテレビドラマや映画、ニュースでよく耳にするわけで、それは制作者側の意図通り「実際そうでしょ」という形ではなく、「女とはそういうものだ」ということで刷り込みが起きてしまう部分も相当あると思われる。逆に男はこういった目に遭うことは稀だ。したがって何の問題もなく心と身体は一致しているのである。

「何かより高いところ」を目指すかわりに酔っ払いにビールを運んだり、日曜日に弟の汚い洗濯物を洗う女の子は、大学で勉強し、本を開けてあくびをしている人たちが考えてもみないようなバイタリティーを自らのうちに蓄えもっている。テレザはその連中よりも多く読んでいたし、生活についてはその連中より知っていたが、それを意識することはけっしてない。大学で勉強した人と、独習者とを区分しているのは、知識の量ではなしに、バイタリティーと自意識の程度の差である。


Milan Kunderaミラン・クンデラ 1929年4月1日(82歳)
ミラン・クンデラ 1929年4月1日生(82歳)


 第3部の『理解されなかったことば』は、さらに私の笑いを誘った。第6部のアメリカ人とフランス人の断絶の描写も面白かったが、秀逸と思ったのはこの第3部である。

 ここではフランツという2人目の男が登場する。場所はジュネーブ。そして彼と「理解されなかったことば」を交わすのはサビナである。サビナはトマーシュ、テレザと共にプラハにいたのだが、ソ連軍が侵攻してきたためスイスへ亡命したのだった。(トマーシュとテレザも一度はチューリッヒへ亡命したのだが、テレザが別れを記した手紙をおいてプラハに帰ってしまったため、トマーシュは3日間逡巡した後プラハに戻る)。

 私が感心したのは、書き手が、ここに示される断絶について「そーいうもんだよね」ということで描いていることである。断絶に気づかない男と、断絶を断絶として提示しない女として2人は終止するが(そのためこちらとしてはどうしてもフランツがただの間抜けに見え、したがってサビナが彼との関係に積極的ではなく、断絶が露呈しても放っておいているように見える)、その断絶に対する態度も含めて、それぞれがそれぞれの断絶を形成してしまう背景を見ると、フランツはフランツで筋が通っているし、サビナに関しても同様である。彼らの生き方の違いとして断絶は生まれるわけで、やはりこれはしょうがないとしか言い様がない。いや、むしろそれが当然なんで、以心伝心といかないことは別に悪でもなんでもないのである。

 彼らの断絶の中で一番笑ったのは次の話である。

 サビナは浴室からもどってくると、そのあかりを消した。こんなことを彼女がしたのは初めてだった。フランツはこのしぐさにもっと注意すべきであった。彼には光が何の意味も持っていないので、それに注意を払わなかった。知っての通り、愛し合うときフランツは目を閉じるのが好きであった。

 そして、まさにその閉ざされた目のゆえにサビナはあかりを消した。彼女はもう一瞬といえども閉ざされたまぶたを見たくなかった。諺にいうように、目は心の窓である。彼女の上でいつも目を閉じたまま激しく動いたフランツの身体は彼女にとって心のない身体であった。それはまだ目が開いておらず、のどがかわいているので力なくピーピー鳴く動物の子供に似ていた。あの最中の素晴らしい筋肉をしたフランツは彼女の乳房で乳を飲む大きな子犬のようであった。本当に彼は乳をちゅうちゅうやるかのように彼女の乳首を口にしていた!下半身は成熟した男で、上半身は乳を飲む子供、すなわち赤ん坊とことを営むという考えが急にサビナにはほとんど嫌悪といっていい感情をおこさせた。いやだわ、もう二度と彼が自分の上で絶望的に動くのなんて見たくないわ、雌犬が子犬にするように自分の乳房をふくませるなんてもう二度としないわ、今日が最後よ、絶対におしまい!

 彼女はフランツに黙ってパリに行ってしまうのである。
パリへと移ったサビナは、しかし「存在の耐えられない軽さ」からくる憂鬱に苛まれていた。その後彼女はフランツにつけまわされたり復讐されたりすることはなかったが、まさにそれこそが問題だったのである。
彼女は「軽さ」に耐える女である。書き手が最初に「軽すぎるということは自由ではあるが意味がない」と述べていたもののモデルのように思われる。確かに彼女は自由であったが、そのために彼女は両親や祖国、愛を裏切ってきた。おそらくこの先もそのように生きていくことだろう。

 しかしもはや裏切るものがなくなったとき、その結果はどういうものなのだろうか。そしてその先はどうやって生きていけばいいのか。自由であることの軽さ。何からもつなぎ止められていない自分とは、誰にとっても何にとっても意味のない存在ではないのか。 

 そう考えるうちに3年が経ち、ある日彼女はトマーシュの息子から手紙を受け取る。それはトマーシュとテレザの死を告げるものであった。彼女はトマーシュという過去とのつながりをまた一つ失ったことで、かなり打ちのめされる。そして手紙の中に、トマーシュとテレザが幸福であったと思われる記述を認め、ふいにフランツの事を思い出すのである。

 彼女は、フランツと自分の断絶に我慢がならなかったことを悔いた。「もっと長いこと一緒にいれば、話し合ったことばがしだいに理解されてきたかもしれなかった」。このときサビナは「重さ」に憧れたのかもしれない。テレザという「重さ」と共に幸福に暮らしていたトマーシュのように、自分もフランツという「重さ」があれば、これほど虚しい思いもしなかっただろうにと・・・・・。


不覚にも長くなりすぎた。
小説の解釈は読み手の自由である。

独善的イシコロの感想である。

私たちの生が一回性であるかぎり、どの年代も初体験、未知との遭遇であり、生きている限り、我々は常に構造的な無知(未知)のなかにいる、といってよい。ミラン・クンデラの作品『無知』は愚かしさを嗤(わら)う罵言ではなく、これまで何度も似たような体験をしてきたのに、また同じことを繰り返している人間世界の危機意識のない「知の限界」の愚かしさと滑稽さを表現したのであろう。

無知の知(クンデラ)、無意識の識(フロイト)、無用の用(老子)にも示されるように、我らはいつも無と存在の領域を振り子のような正確さではなく、理性と感情にまかせてただ取るべき手段もなく往復している。このようなわれらの原初的生物の、神聖で愚かな行動を『無知』と表現したのであろう。

この中では、人間が主張する生命の重さという単位は存在しない。気体のように、雲のように風に吹かれて飄々とあてもなく漂う羽毛の軽さに似ている。

人間の存在とは何か、という身勝手で人間独自の独善的発想は拒絶される。
無常観、はかなさ、かそけさ、という日本人好みの言語表現では説明できない無知の世界である。

クンデラは、存在の前に、人間を付けて『人間存在の耐えられない軽さ』を伝えたいのだ。
今でも変わること、改善されることのない、地球的「男尊女卑」を隠した見え透いたドグマ。
虐げられる女性、老人、子ども、そして踏みにじられる弱小の民族、人間への冒涜をあばいてみせる。

決して、存在しない(現実には救われることのない)神ではなく、実存する人間に対する冒涜を、である。

この点においては、アンガジュマン engagement(第二次大戦後の社会参加による体制への不服従)を旗印にした、かっての実存主義作家(サルトルなど)時代より進化している。

これが民衆に開眼をうながす文学のもつ力であろう。

いくらデモをして、反対、反対を叫んでも体制は変わることはない。

膨大な過去の文化的遺産・知識・智慧で対処しようとしても、
どうにもならない人類の愚かさと無知を、ミラン・クンデラは
『存在の耐えられない軽さ』と命名したのではないだろうか?



スポンサーサイト



もくじ  3kaku_s_L.png 未分類
もくじ  3kaku_s_L.png 
もくじ  3kaku_s_L.png 愛娘 Erika
もくじ  3kaku_s_L.png やきもの
もくじ  3kaku_s_L.png 余白の人生
もくじ  3kaku_s_L.png 忘れえぬ光景
もくじ  3kaku_s_L.png 文学・芸術
もくじ  3kaku_s_L.png 雑学曼陀羅
もくじ  3kaku_s_L.png 時事評論
もくじ  3kaku_s_L.png 教育評論
もくじ  3kaku_s_L.png 書画・骨董

~ Comment ~

管理者のみ表示。 | 非公開コメン卜投稿可能です。
  • 【宮城谷 昌光】へ
  • 【「張り扇史観」  司馬遼太郎】へ