忘れえぬ光景

スターリン 独裁者の遺伝子

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世界の独裁者 スターリン


現存する忌まわしい民族の遺伝子




凡人から見たら、驚愕戦慄する人間である。世界の歴史には数多く登場するので犯罪心理学の分野からは大変興味深い。どうして最高の地位にまで到達できるのだろうか?

生物学的本能からいえば、雄は支配的権力願望という潜在的欲望をインプットされている。
ただ、その願望や欲望は天賦の才能や残忍性・残虐性がなければ実現することはないだろう。
そう考えると、支配され、虐げられ、殺戮される人間は、虫けら同様である。
世界の歴史は、このくりかえしであり、現在も世界の至る所で興亡し進化していく。

独裁者、つまり一人で司法・立法・行政の三権を独占して裁き、何でも好き勝手に出来る存在である。
どんな独裁者でも独裁者になる前は、世襲制を除いて裕福であったケースはあまり聞かない。
生い立ちの中で、犯罪者と同様な残忍なで悲惨なトラウマをかかえた暗い過去を持つものが多い。

民の生活を顧みず、大金を蓄財をし、君臨して贅沢三昧、酒池肉林を恣にした挙句の果てには、次期政権を虎視眈々と狙う集団から、恐怖政治の下で自由解放を求めて蜂起した民衆から、殺害される。死罪を免れてもどこかに追放され幽閉されるという悲しくも哀れな末路が待っている。旧独裁者を追い払ってその地位にのし上がった新独裁者は旧独裁者と同じようなことをして、さらに次期独裁者グループに狙われるという悪循環が繰り返されている。

地球上の歴史は、主役や民族が変わるだけで、同じことのパターン化した、残忍なフラクタルショーともいえる。



 スターリンの犯罪

                                         
1953年3月5日、極悪非道なソ連の独裁者、スターリンが死亡した。

スターリンの最も忠実な部下で、ソ連秘密警察の元締めであったベリヤは、権力基盤を失い、1953年12月23日、【国家反逆罪】で銃殺された。

スターリンとベリヤは大粛清とよばるれ反対派の徹底的殺害を行った。
やり方は、日ソ戦争の戦後に行われた日本人捕虜に対する【エセ戦犯裁判】と全く同じで、反革命罪、国家転覆罪、国家反逆罪との罪名で、【エセ裁判】を行い、片っ端から一方的に死刑宣告を行い、判決、即執行で、容赦なくぶっ殺していった。

大粛清によって、反スターリン派の旧共産党指導層は完膚なきまでに殲滅された。
反スターリン派の地区委員会、州委員会、共和国委員会は丸ごと消滅した。

1934年の第17回党大会の1,966人の代議員中、1,108人が逮捕され、その大半が銃殺された。
1934年の中央委員会メンバー139人のうち、110人が処刑されるか、あるいは自殺に追い込まれた。

1940年にトロツキーがメキシコで暗殺された後は、レーニン時代の最高指導者で残ったのはスターリンだけであった。

党内の反対派をことごとく大虐殺した後、極悪非道なスターリンは、さらに学者、軍人、官僚、農民など、あらゆる分野において反対する者たちの大粛清(大虐殺)を行った。

ゴルバチョフ大統領時代、KGB(ソ連国家保安委員会)は、1930年~1953年のスターリン時代に
786,098人が反革命罪で処刑されたことを公式に認めた。

さらにソ連崩壊後、ロシア連邦国立文書館(GARF)は1953年にNKVD(内務人民委員部:ソ連の秘密警察統括部門)の書記局が作成した大粛清に関する統計報告書を公開した。

それによるとNKVDは1937年と1938年の2年間に1,575,259人を逮捕した。
このうち1,372,382人が「反革命罪」であった。

85%が有罪にされた。有罪者のうち半数強が死刑になった。死刑を免れたものはシベリア強制収容所送り(流刑)だった。

塩川伸明東大法学部教授:「スターリニズムの犠牲」の規模によれば、

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 不服従の者を大量に虐殺・血の粛清

先ず、農村の富農層(クラーク)を撲滅した。

1929年、スターリンは、第1次五か年計画を発動した。目的は、農業国ロシアを工業国に変えることであった。この計画の核心は農民の強制集団農場化であった。すべての農民をコルホーズと呼ばれる集団農場組織に組み入れた。

農地・農機具・家畜の私有は禁じられ、すべてコルホーズ所有になり、共用となる。コルホーズで収穫される穀物は、すべて国家のものになる。

農村において、これまで、着々と財産を蓄えてきたクラークと呼ばれる富農層は猛烈に反発した。彼らにしてみれば、これまでの財産をすべて失い、以後も、財産を貯めることが許されないからだ。

スターリンは、約900万人の富農層(クラーク)を、銃殺、あるいはシベリア流刑で完全に撲滅した。

 農民(ムジーク)の完全農奴化

富農層を皆殺しにしたスターリンは、さらに、強制集団農場化に従わない一般農民(ムジーク)に対しても情け容赦のない弾圧を加えた。
各地で、強制集団農場化に強く反対・抵抗する農民(ムジーク)たちの暴動が相次いだ。農民(ムジーク)たちは、斧や、熊手や、猟銃や、旧式ライフルを手に地方の政府施設を襲撃、放火して抵抗した。

これらの暴動に対して、スターリンは、戦闘機に機銃掃射させ、戦車、大砲、火炎放射器を装備した軍隊を派遣して、農村を丸ごと焼き払わせた。
1929年だけでも、強制集団農場化に反対・抵抗した約1,000万人の一般農民が、銃殺されたり、シベリア流刑になった。

見せしめのため、強制集団農場化に最も強く反対した農民たちは、広場で、自らの墓穴を掘らされた上、銃殺され、墓穴に投げ込まれた。

 「人民の敵」粛清の拡大

スターリン体制を批判するものは、すべて、皆殺し。血の粛清は、とめどなく拡大していった。まもなく、農民だけでなく、民族主義者、知識人などスターリン体制に批判的な者が、すべて、大量虐殺の対象にされていった。

スターリン体制に批判的な者たちは、「人民の敵」とのレッテルを貼られ、エセ裁判にかけられた。それは、裁判とは名ばかりの大量虐殺ショーであった。
「人民の敵」容疑がかけられると、陰惨な拷問や、自白薬によって自白させられ、即刻、銃殺刑か、シベリアの強制収容所への流罪になる。

時間のムダを省くために、トロイカと呼ばれたエセ簡易裁判で、容疑者には何らの弁明も許されず、裁判官と称する者が一方的に死刑判決を言い渡す。判決後、10分以内に、その場で処刑されるのである。信じられないほどの素早さで大量虐殺が行われた。

流罪判決を受けた者のために、スターリンは、矯正労働収容所と称して、シベリアなど、ロシア北西部に数えきれないほどの奴隷収容所を創った。スターリンは工業化のためには、大量の、ただ働きの奴隷労働者が必要と考えていたのである。

賃金を払う必要がない流罪囚人=ただ働きの奴隷労働者には、かろうじて生きられるだけの食料が与えられた。過酷な重労働で、流罪囚人たち=ただ働きの奴隷労働者は、驚くべきスピードで、餓死、凍死していった。

 刑法第58条「反革命罪」でただ働きの奴隷労働者を永続的に確保

1926年、スターリンは、抜け目なく、刑法第58条という新しい条例をつくった。
刑法第58条は、通称「反革命罪」と呼ばれ、これにより、多くの共産党員、民間人、さらには外国人までもが、この罪によりシベリアの奴隷収容所へ送られた。

刑法第58条によれば、政府の転覆、崩壊、もしくは、革命成果を崩壊、弱体化させる行為は、反革命的と見なされ、「人民の敵」と見なされる。人々の日常的行為で、この条例に引っかからないものなどあり得なかった。要するに、スターリンのソ連秘密警察が、まったく無実の者に、「人民の敵」とのレッテルを、いつでも、好きなだけ、貼り付けることを可能にしたのである。

スターリン体制を維持するため、この条例によって、数百万人の無実の人間が、「人民の敵」とのレッテルを張られ、全財産を国家に没収された上、銃殺されるか、シベリアで過酷な奴隷労働を強制されることになった。シベリアに送られた流罪囚人たちを待っていたのは、金鉱の採掘、運河や鉄橋の建設などの過酷な奴隷重労働であった。

その過酷な奴隷重労働は、想像を絶するほどひどいもので、1日に16時間以上の過酷な奴隷重労働が課せられた。真冬ともなると、あらゆる物が凍りつき、気温は零下60度にも下がる。当然、多くの流罪囚人が凍傷にかかった。医者は、まるで植木職人のような手さばきで、凍傷にかかった流罪囚人の手足を、パチンパチンとハサミで切り落としていった。激しい飢餓に耐えきれずに、死体置き場から死人の肉を切り取って食べた者も少なくない。

少しでも反抗的な態度を取ると、目の玉が飛び出るほど殴られた。流罪囚人たちは、体力を消耗して、みるみるうちに痩せ細り、どんどん死んでいった。死亡して、コチコチに変わり果てて凍った死体は、次々に運搬用のソリに投げ込まれてすぐに片付けられた。もの凄い寒さと奴隷重労働による疲労、飢えのために、ほぼ全員が、流罪の年の冬に死に絶え消滅した。

夏になると、再び、新しい流罪囚人の群れが送られてくる。彼らも冬になると同じ運命をたどるのである。
毎年、補充のために、数十万人単位の流罪囚人が、貨物列車に閉じ込められてピストン輸送されてくる。
毎年、冬には、ほぼ全員、死亡するので、流罪囚人数が増えることはなかった。
このように、死亡しては、新しく補充されるというサイクルは休むことなく繰り返された。

 旧ソ連の強制収容所(ラーゲリ)

ソ連における収容所は1920年代から第二次世界大戦をはさんで1940年代まで拡大し続け、1950年代はじめに最大規模に達し、ソヴィエト経済で中心的役割を演じるようになっていた。収容所は全国で少なくとも500箇所近くに存在していた。収容所に収容された人の数は数百万人から数千万人説まであり、全労働力人口の一割以上を占めたともいわれる。

収容所の組織的運用によりソ連は近代において、事実上の奴隷制を公的に有する唯一の国家になった。スターリン時代の1926年には刑法58条、通称「反革命罪」が制定され、これ以降多くの共産党員、民間人、外国人がこの罪状により強制収容所へ連行された。

過酷な労働により多くの囚人が刑期を終えることなく死亡したとされている。スターリン死後、後継者のベリヤは自由化キャンペーンにより収容所の規模を縮小し、囚人を解放するなどしたため、条件は幾分緩和されたものとなった。


スターリン恐怖政治、強制(矯正)収容所の恐怖
 
スターリン恐怖政治、ソビエト最初の強制収容所「ソロフキー」


 参考文献

『収容所群島』(小説、アレクサンドル・ソルジェニーツィン)
『イワン・デニーソヴィチの一日』(小説、アレクサンドル・ソルジェニーツィン)


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