文学・芸術

「古唐津の神様」

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zko 西岡小十 黒唐津茶碗




 西岡小十 「古唐津の神様」


小山冨士夫先生は著書『骨董百話』(1977)に、 「古唐津の神様」と西岡小十先生を紹介されている。  
200近い古窯址を発掘調査された経験から西岡小十(本名・悟)先生は古唐津を現代によみがえらせ、現代唐津に多大な影響を与えた。 
私が小十先生の工房をお訪ねするようになったのは1975年春からだ。 
そのたびに奥さまが、小十先生御作の唐津茶碗でお薄を点てていただき、 古窯址を発掘されるようになったことなど多くのお話を伺った。


zko 西岡小十 唐津 井戸茶碗 上手 w15.5 h8.5 cm 324000inst
 

古唐津再現に、のめり込まれたのはは1950年のことだったという。 
やきもの好きの友人に誘われて初期唐津の古窯址「帆柱窯」に行った時、 斑唐津の陶片の美しさに心奪われ、
その三年後から毎日のように古窯址の発掘に携わるようになられた。 
小十先生はいつしか古唐津の再現を夢にみるようになられたというのだ。


zko 西岡小十 黒唐津茶碗 口径15.3 高 7.7cm ¥250,000~


小十先生の経歴は、波乱万丈であった。
大正六年(1917)、唐津で出生され、唐津中学から高校を経て関西大学に入学された。
卒業後、商社に就職されたが、兵役に就き、満州にて野砲部隊に従軍。
二年後、終戦を迎えて帰国して後、 生命保険会社に勤務され、五年後、唐津に帰郷され、古窯址を巡るようになる。

その古窯址発掘を始めたきっかけは、 1953年頃から生活の為に古窯跡の発掘を始められたというのだ。  
いつもニコニコと笑顔で出迎えてくれる小十先生は温厚そのもののだったが、ある日、 「何か掘ってこんと喰えんでしょう  楽しみや遊びではなく生きるための発掘ですよ。陶片を掘って来なくては帰れないから真剣だった」
と真顔でいわれたことがあった。
こうして永年発掘された古陶片は工房裏に山のように積まれていた。


z 西岡小十 朝鮮唐津 水指a


この古窯址発掘をきっかけとして、 1960年、文化財調査官の小山冨士夫と面識を得られた。
この年、永仁の壺事件で文化財保護委員会事務局を退職した小山先生は、1963年には出光美術館の顧問に呼ばれた。
唐津再興の影の立役者・古舘九一氏の蒐集した古陶片を礎に、出光美術館の古陶片所蔵の充実をはかったのだ。


zko 西岡小十 絵唐津 鉢 w18.5 h9.0 cm


1966年からは鎌倉二階堂の自宅で本格的に陶芸家の道を歩みだし、美濃・備前・信楽・萩など全国の陶芸家と交流をもつようになり、中でも「唐津は最も心惹かれるところ」といい、唐津の太郎右衛門窯でも作陶された。
早くから唐津古窯址を発掘調査していた小十先生との話がはずみ、 小十先生の集めた陶片を出光美術館で発表しようと蒐集された中から二十数点を譲った。


zko 西岡小十 小次郎窯a 絵唐津 湯呑茶碗5客


その頃から先生は発掘に携わるだけでなく、 「発掘した陶片のように崇高な唐津を再現したい」という気持ちをもつようになり、小山先生に相談を持ちかけられた。
「それを待っていたんじゃ」と小山先生は目を輝かせて喜んでくれたのである。


z 西岡小十 朝鮮唐津窯変耳付花入 25.5cm 52100end


こうして1971年に小山冨士夫先生の指導による割竹式登窯「小次郎窯」を唐津衣干山の頂に築窯されて独立。
1973年、その小次郎窯を小山先生が訪れた。
鎌倉の二階堂に住んでおられた小山冨士夫先生は小十先生のことを「唐津のことなら知り尽くしている古唐津の神様」といい、古唐津を手にすれば即座に小十先生に見せて、古窯址を特定されていたのが、懐かしく思い出されるのだ。
「唐津焼発掘の名人で唐津の窯跡をこの人ぐらい知りつくしている人はいない」
と小山先生からのご紹介もあり、 私が小次郎窯に小十先生をお訪ねしたのは1975年春のことで、築窯されて五年後であった。

また、1976年には荒川豊蔵先生が来窯されて作陶されたことから、柔らかな志野を意識されて作陶されるようになられた。
1980年にはやはり小山先生のご紹介で藤原啓先生が来窯され、窯詰めによる窯変の利いた焼きを知った。


z 西岡小十 朝鮮唐津ぐい呑a 73000end


西岡小十先生は小山冨士夫先生を「唯一の師」と仰がれ、その進言により、終始、世間の名利私欲とは無縁の無冠で古唐津再興に邁進された。

ようやく唐津の衣干山の麓に割竹式登窯を築窯した。
唐津古窯址は二百を数えるが、中でも最も北部にある小十官者窯は文禄慶長以前に稼動した初期唐津で
唐津市梨川内に三基あり、現在は孟宗竹に覆われている。

唐津特有の土肌とは違い、硬く焼き締まった磁器質の素地に無地唐津や絵唐津などが、 焼かれていた小十官者窯は別名を「小十窯」「小次郎窯」といい、これにあやかり、小山先生は窯の名を『小次郎窯』と命名された。
こうして小山先生の援助もあり、1971年、54歳の小十先生は古唐津再現を目指した。
古窯址発掘の経験から築窯のための傾斜、構造、さらに物原にあった窯道具などを特定して築窯したのだが、
粘土の採集や制作、築窯、窯焚などの心労がたたり、 大病して手術され、一年間の入院を余儀なくされた。


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初個展が開催されたのは1975年のことである。
自ら集められた古唐津の陶片を陳列した「古唐津陶片展」と併設の姫路のデパートでの初個展だった。
この時、偶然、荒川豊藏先生が見に来られて、帰り際に茶碗を求めてくれたことが、 大きな励みになったといわれた。

二十年間、古窯址を徹底的に発掘した先生から多くの陶片を見せていただき、小十先生から貴重な陶片を分けていただいたりもした。
その三年後の1978年、先生は唐津岸岳系・山瀬下窯で、斑唐津に絵が描かれている珍しい陶片を数点、発見した先生は、この幻のやきものの再現に着手した「おそらく一、二回の焼成で当時の陶工が難しくてあきらめてしまった『絵斑唐津』です」と教えていただいた。


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藁灰釉である斑唐津は火の強い火前で焼成するが、火に弱い鉄絵は流れ易いため、せっかくの絵も溶けてしまうので思うように再現できなかった。
1981年に数十回の挑戦の結果、山瀬の粘土ではないが、岸岳の土を使って、斑の中から滲んだ鉄絵がのぞく美しい絵斑唐津を完成させた。この絵斑唐津は茶碗を主にぐい呑や鉢などの食器に至るまで制作された。


zko 西岡小十 絵斑唐津 ぐい吞み


独立してまもなく小十先生は陶工二人を引率して長崎と佐賀の県境近くの平戸系唐津の古窯址を発掘された。
その五日目、牛石窯近くの畠の中からほとんど無傷の黒唐津沓茶碗を掘り出した。
そして夕方、連れのM氏が皮鯨の奥高麗風茶碗を掘り出し興奮して先生を呼んだ。
先生はこびりついた土を谷川の水で洗うと細かい梅華皮が現れ、その窯変のすばらしさに感動し、足元が濡れるのにも気づかなかったという。


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「あの美しい梅華皮の茶碗に産湯をつかわせたときの感激は、あの豊藏先生が竹の子の茶碗の陶片を発見し、 古陶の再現にのめりこんでいったときの心境を、今はじめて共有できた気がした。
帰りの車中その再現に努めようと決心し、ようやく牛石の陶土を使って再現することができた」といわれたが、それは容易いことではなかった。
1985年、幾多の失敗の末、ねらい通りの高温に耐えた深みのある『梅華皮唐津』を再現させたのだ。

「それまで牛石では、ただ力強い壺しか見るものがなかった」といわれ、その「梅華皮再現」のことを、呼子の河太郎の二階で小十先生作の大皿に盛られたお刺身を頬張りながら語ってくれたのである。


s-DSCN5024 (2)


その後も尊敬する美濃の荒川豊藏と備前の藤原啓という陶芸界の巨匠が来窯され、大きな影響を受けられた先生は豊藏先生から日本的な温か味、藤原啓先生からは窯変の利いた焼きを知った。

唐津は備前などの焼締陶と同様に唐津は匣鉢に入れず、むき出しで焼成するから強烈な炎が降りかかるので深い味わいとなる。
私はそんな勢いを感じる作品を小十先生に求めた。
その後、二、三カ月に一度のペースで伺う度に、
「ナオシテありますよ。黒田さん好みのを……」といいながら、仕事場の棚の奥から窯変の利いた作品を笑顔で分けていただいた。
美智子夫人がお一人になると箪笥の中から奥さま好みの梅華皮茶碗などを見せていただいた。
こうして親しくさせていただいている間も、 小十先生は古唐津の再現とそれに甘んじない創意工夫を試みていだ。


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中里無庵先生が重要無形文化財技術保持者に認定された一九七六年、荒川豊藏先生が小次郎窯へ来窯し、作陶もされた。これをみて、李朝の陶技である唐津焼に豊藏張りの包み込む茶碗の造形と口作り、そして志野のような温か味のある釉調を先生はとり入れたのだ。

「唐津を熟知している西岡には何も言うことがないと、荒川さんが言っていたよ」と小山先生からお聞きした頃の1981年、 小十先生は小次郎窯の奥に、自らの作品専用の小さめの登窯を築き、『小十窯』とした。
名づけ親は豊藏先生である

藤原啓先生は1980年に来窯された。
もとより小山冨士夫先生からの紹介であった。
啓先生は硬い備前焼を志野のように柔らか味を出すことに腐心された巨匠だ。
「西岡の唐津はいい」と備前にお訪ねした時にいわれた。

啓先生の影響で備前の登窯の間仕切りである素穴に作品を入れて焼成する「自然桟切」ノ技法を取り入れた。
備前では「秘密室」ともいわれる素穴、唐津では温座である。
小十先生は登窯の温座に作品を置くようになり、片身変わりの窯変を焼成されるようになった。

柔らかさだけではない李朝の堅手のような味わいの作品にも挑まれた。
桃の川内の土を探された小十先生は、 「桃川には古窯址はないのだけど、初期の唐津は堅手ものもあった」と梨川内の小十官者窯の李朝の堅手を思わせる素地と似ているこの土を使われ、 固く焼き締まった絵唐津の作品を発表された。


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 窯出しの日

さらに1999年には人に勧められて石川県辰口町に「辰之口窯」を開窯された。
「唐津の土に似ている」と小十先生はいわれ、この作品を『加賀唐津』と名づけ、 京都野村美術館にて「加賀唐津初窯展」開催された。

「一度、加賀の窯へおいでよ。いい温泉があるから」と先生からお誘いを受けたが、お伺い出来なかったことは、とても心残りである。
土にかけるこだわり、焼に対する情熱など、その意思を継ぐ後継者がいないことを、 小十先生は無念におもっていただったろう。
わずか一代で小十先生の小次郎窯・小十窯が終焉したのは、私たち愛陶家に誠に大変残念なことである。

数十万点の陶片に触れて古唐津再現にかけ、伝世品にない梅華皮唐津や絵斑唐津を復元し、 唐津再興の祖といえる西岡小十先生が、一切の公募展に出品されず、 終始、無冠でいつづけ、小山冨士夫の進言を守り通した。


当苑では何度も小十先生の個展を開催させていただき、 都内のデパートでも個展を開催させていただいた。
先生の作品だけでカレンダーを制作させていただいたこともあった。

唐津の工房ではいつもサンダルをお履きになり、笑顔で出迎えてくれた小十先生‥‥2006年の正月、日本橋三越での新作展ではお元気なご様子だったが、その八月三十日、肝臓癌で九十才の天寿を全うされたのである。
 
◇ Posted by 黒田草臣 四方山話◇
 



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