やきもの
はまぜん祭り 三川内焼

伝統の肥前平戸(三川内)焼
ひさしぶりにふるさとに帰省した。
30代からの友人である4歳下の陶芸作家を訪ねた。
若いときから、伝統の肥前平戸(三川内)焼を研究し、それを現代に再現しようと不断の努力を黙々と続けてきた寡黙な人である。
やきものを酒の肴にして、よく二人で呑んだ。古窯の発掘にも一緒に出かけた。
自宅を増築したときは、和室のふすま絵としてみごとな水墨の山水画を描いてくれた。

「松林楼閣山水七賢図」
四十数年前、家を増築したときに応接間の襖に、楼閣山水図を描いてもらった。
焼き物の里・三川内山の陶芸家・今村光雲氏作である。

努力が実って、数々の大賞を受賞し、現代の名工(匠)にも選ばれた。
平戸焼きの骨董品をいくつか蒐集したが、彼の作品は、高台に窯印がなければ古平戸で通用し、それに優るとも劣らないほどの腕前である。


歴史
豊臣秀吉が起こした朝鮮の役の際、各地の大名は秀吉の命により、朝鮮の陶工を日本へと連れ帰った。平戸藩藩主である松浦鎮信(まつらしげのぶ)も多くの陶工を連れ帰った。慶長三年(1598年)に連れてこられた巨関(こせき)という陶工は、帰化して今村姓を名乗った後、平戸島中野村の中野窯で藩主の命により最初の窯入れをした。この中野焼が三川内焼の始まりといわれている。同じく朝鮮から来た陶工の高麗媼は中里茂左衛門のもとに嫁いだ後、元和8年(1622年)に三川内へ移住した。また、巨関は1622年ごろ、中野村に陶土がなくなったために陶土を求め息子の今村三之丞と共に藩内を転々とし、寛永14年(1637年)、最後に行き着いたのが三川内である。その後、慶安3年(1650年)に中野村の陶工が平戸藩により三川内に移された。
代表作品
唐子絵
唐の子どもたち(唐子(からこ))が唐扇を持ち、松の木の下で牡丹に飛ぶ蝶と戯れている様子が描かれている。当時は、描かれた唐子の人数によって用途が異なっており、7人唐子は将軍家や朝廷への献上品で献上唐子とよばれ、3人唐子は一般大衆用とされた。なお、三川内焼400周年の際にそれを記念して400人唐子の大皿が製作されており、三川内焼美術館で見ることができる。
透かし彫り
彫刻で、金属・木・石などの薄板を打ち抜いて模様をあらわす技法。また、その彫刻したもの。欄間の彫刻、刀剣の鍔(つば)などに見られる。その他色々な焼き物などで使われる技法として有名である。香炉や多宝塔などの作品がある。
『ウィキペディア(Wikipedia)』
平戸藩御用窯のはじまりと三川内焼
三川内焼の歴史PDF
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