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キリスト教の犯罪歴史の概略

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 教会は最大の犯罪組織 

 キリスト教の犯罪歴史の概略



カールハインツ・デシュナー全集を基にし、他のキリスト教批判書も参考に、駆け足で二千年のキリスト教の犯罪歴を見てみましょう。


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 古代


キリスト教信者は、自分達の教会こそ最大の犯罪者なのに、ローマ時代のキリスト教殉教者の役割をこれまでずっと強調してきました。しかし、実際はキリスト教の為に死んだ人の数は極めて少数でした。カールハインツ・デシュナーは色んな歴史の研究者 (教会の研究者を含めて)の論文を調べた結果、ローマ時代のキリスト教信者を襲ったという「十回の迫害波」は伝説、つまり作り話しでしかなかった事が判明しました。キリスト教の偉大な人物オリゲネス(254年死亡)はキリスト教の殉教者の数は10指に満たないと述べました。

ネロ(54ー68)のキリスト教大虐殺も実際はただの放火者の死刑でした。当時の歴史学者、スエトン(Sueton)とタキトゥス(Tacitus)は、反ネロであったにもかかわらず、キリスト教の放火者の裁判はネロの善の行為だと書き残しました。ネロは国民から愛され、焼失したローマの一地区の再建に私財をつぎ込んだと言われています。キリスト教の宣伝に描かれている様な悪魔の人物ではなかった様です。

殉教者の多くは狂信者で、ローマの神々の神殿、祭壇や彫刻等を糞尿で汚すなどの無礼な行為や冒涜を行っていました。十六世紀末期、日本人はキリスト教信者に対し、ローマ人と同じ経験をしました。

九州では、キリスト教の熱狂信者が、「偶象破壊」として仏教の崇拝物や経典を壊したり、仏塔を解体して薪にし、バテレン(伴天連、キリスト教宣教師)の風呂の燃料にしました。当時、キリスト教に改宗した日本人も仏像に排便した事をバテレンが書き残しました。1988年2月10日、ドイツの日本歴史研究者パウリ博士(Dr.Ulrich Pauly)はその頃の出来事をドイツ文化会館での講演「鎖国」(原稿出版:Ulrich Pauly “Sakoku” Zu den Hintergruenden von Japans Weg in die nationale Abschliessung unter Tokugawa; OAG aktuell Nr.36)で明らかにしています。

そうした熱狂的殉教者は現在はカトリック教の聖人として、天で神に仕えています。彼らに病気が治る様に祈れば、その願いは優先的に神の耳に伝えてくれるはずです。
いずれにせよ、古代ローマではキリスト教信者の迫害はありませんでした。迫害されたのは、狂信者、すなわち犯罪者でした。

古代ローマ時代の大虐殺は、キリスト教最初の皇帝であるコンスタンチヌス大帝から始まりました。彼自身こそ殺人犯でした。この冷酷な人物は自分の息子ののどを切り、妻を絞め殺し、舅や義兄も殺しました、同時に彼は宮殿に、偽善的聖職者を扶養し、信条の異なる人々の虐殺をそそのかしました。(The complete works of Percy Bysshe Shelley, 1965)

実はコンスタンチヌス大帝在位中の325年、小アジアのニカイア(英語ではニケーア)に最初の全キリスト教会議が行われました。ニカイア宗教会議ではカトリックのアタナシウス派とアリウス派は二ヶ月以上もイエス・キリストの本質について論じられました。イエスは神と同じ本質か、或いは神と似ている、つまり神に最も近い、でもちょっと違う本質か、それが問題でした。homousiosかhomoiusiosか?何と無意味な問題でしょう。とうとうコンスタンチヌスは堪忍袋の緒を切らし、カトリックのアタナシウス派の三位一体説を正統と決めました。

まもなくアタナシウス派は二ヶ月以上議論した相手であるアリウス派司教や聖職者、および信者を迫害し始めました。カトリックの大教父、聖アタナシウス自身は敵のアリウス派の支持者を殺す様に人々をそそのかしました。コンスタンチヌスの帝国ではアリウス派の著作を所有しているだけでも死刑を宣告されました。

コンスタンチヌス大帝に始またキリスト教ローマ帝国以後、それまでの汎神論の寺院や神殿は破壊されました。ギリシャの神殿が遺跡になったのは、時の流れの所為ではなくその多くがキリスト教の狂信者の所為です。

彼らは古代の知識の集大成であるアレクサンドリアの図書館も破壊しました。アレクサンドリアの大司教聖キリル(Kyrill)の命令によりキリスト教の狂信者はアレクサンドリアの有名な女性哲学者ヒパチア(Hypathia)を誘拐して教会の中へ引き摺り込み、服を脱がせ、ガラスの破片で彼女の体を切り殺しました。
394年はギリシャの最後のオリンピア競技会が行われた年でした。その後、オリンピア競技会は異教の行事として禁じられました。アテネの大学の存在が許されたのは529年まででした。だんだん暗い時代に入っていきました。


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 宗教裁判・異端審問(Inquisition)


ヨーロッパの異教的諸民族をキリスト教の支配下に置こうとしたカール大帝の時代にすでに後の「Inquisition」(異端審問)の様な宗教裁判がありました。1184年のベローナ(Verona)の教会会議で司教達は異教徒の迫害、特に南フランスのカタルシスの異教徒迫害を意図し、組織的な迫害を体系化しました。新しく組織された異端審問は、ドイツの雑誌Spiegel(6/1/98)によるとナチの秘密国家警察ゲシュタポやKGBやスタージ等の先駆組織です。

同誌によると18世紀まで少なくとも百万人の命が奪われましたが、焼き殺された犠牲者数は千万人にのぼると推測する歴史学者もいます。さらに、死を宣告された人々の十倍もの人々が長期の牢獄刑や烙印(らくいん=焼き印)刑や鞭打ちの刑に処されました。身体部分 (舌、耳、腕、足等)を切断された人もいました。また、労苦の聖地詣の旅に処された人もいました。

例えば、現代の生物解剖学の創立者ベサリウス・アンドレアス(Andreas Vesalius)は、異端審問の法律に基づいた拷問を受けた後で、当時フィリップ2世時代のマドリッド市街中を引き回されれ、扇動された賎民の怒りの犠牲となりました。その後、彼は極端に衰弱した体にもかかわらず生物体解剖研究のゆえ異端裁判にかけられ、その判決により、エルサレムへの聖地巡礼の旅を余儀なくされました。そしてその巡礼の旅の途中、1564年ギリシャのサキントス島(Zakynthos)で亡くなりました。現在、百科事典で彼がエルサレムの聖地巡礼の旅で死亡したとの記載を見れば、この学者はなんと敬謙なキリスチャンだろうと思うに違いありません。

ベサリウスの命を奪った同じ犯人であるカトリック教会は現在も、解剖学者ハーゲン博士(Prof.Dr.med.Gunther von Hagen)のプラスティネーションで保存された人体の展覧会に大反対し、これを禁止しようとしています。まるで中世に戻った様です。勿論、現在では教会が平気で自然科学者等を焼き殺すことはできないでしょう。しかし、一般の人々が、ハーゲン博士の展覧会によって人間体の機能が明らかにされ、そこに永遠の魂を見つけることができなければ、教会は、人々の魂を救うという教会の役割を果たせなくなってしまうことを恐れるのです。知識は人間の自律を促すものです。それゆえ、悪魔が聖水を嫌う様に、教会は知識を嫌うのです。


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異端審問の手にかかると絶望的でした。容疑者は長年の拷問と牢獄での自責を強制されます。白状させれた人の財産はすべて没収され、大部分は教会所有となって教会の富を増やし、異端者の家族は、焼殺を免れた場合、ホームレス同然の生活を余儀なくされました。異端裁判官は特に富める者を迫害しました。人の財産を狙い、すでに他界している遠い祖先に異教徒の判決を下した事もありました。

1209年から異端審問は南フランスのカタルシスの異教者への十字軍遠征を始めました。彼らは、次の二十年間で完全に撲滅されました。
十字軍が南フランスの町ベジェールの城壁内に入ると、市民は皆、異端者やカトリック教信者も一緒に、堡塁で固められた大聖堂に逃げました。大聖堂の門の前で十字軍の指揮者の一人が大司教のシトー(Citeaoux)に、カトリック教信者と異端者をどう区別すればいいだろう、と聞いた時、シトー大司教は、「皆殺してやれ、神が自分で正しい信者を選び取るだろう」と答えたとの記録が残っています。
(OttoRahn ”Kreuzzug gegen den Gral”,156ページ)



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 十字軍遠征


1096年から1291年まで、法王の推奨によりパレスティナの「聖地」への十字軍遠征が七回にわたり行われました。この法王達のパレスティナの「聖地」支配欲により、2千2百万人が犠牲者になったと推測されています(Hans Wollschläger "Die bewaffneten Wallfahrten nach Jerusalem") 。

1099年イェルサレムの征服後、この敬謙な十字軍の騎士達は血に酔って女性や子供を含むユダヤ人とアラブ人の市民すべてを、剣で刺し殺しました。約七万人の市民が犠牲になりました。目撃者の記録によると、虐殺の後、血まみれになった騎士達は、幸せの涙を流しながら彼らの救世主イエス・キリストの墓参りをし、神に感謝しました。("Die Kreuzzüge in Augenzeugenberichten", dtv-Taschenbuch, 1971, 頁101).
とにかく、自称「聖戦」に加わった戦士は評判通りの立派な人ではなく、低俗な殺人犯でした。

アメリカの宣教者ビリー・グラハム、日本の東京ドームにての集会の際、日本のキリスト教信者に対し「十字軍の騎士を見習い、日本の社会をキリスト教社会に変身せよ」と訴えました。幸運にも、日本のキリスト教信者は、彼の教えに従って十字軍の騎士の様な犯罪者になる様なことはありませんでした。


 ユダヤ人迫害と虐殺


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古代ローマの初期キリスト教信者は反ユダヤ的でした。ユダヤ教はローマ帝国内でのライバル伝道宗教で、同時にユダヤ人はローマのイェルサレム植民地の反乱問題ゆえにローマ人から嫌われていました。キリスト教信者達はローマ人に対し熱心に「私達もユダヤ人が嫌いだ」といってローマ人に取り入りましたが、キリスト教は実際ユダヤ教とよく似ていました。

旧約聖書はユダヤ教から盗んだもので、キリスト教はユダヤ教の十戒も自分の物にしました。例えば、ユダヤ教の「わたしはあなたの神、主である。あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならい」という不寛容な教えをも自分のものにし、そしてそれを逆にイエスを崇拝しないユダヤ人に向けました。

キリスト教のマタイ伝によれば七つの願いであり、ルカ伝によれば五つの願いの祈祷である「主の祈り(the Lord’s Prayer)」もユダヤの18の願いのシェモネエスレ(shemone esre)という祈祷に由来しています。昔のキリスト教信者はユダヤ人と同じく毎日三回この祈りを唱えました。でも、キリスト教信者に言わせればその祈りは「ユダヤ人の偽善者とは異なって」いたということです。また、「ユダヤ人の偽善者と違って」土曜日ではなく日曜日を休日にしました。

キリスト教の祭日、復活祭や聖霊降臨日等もユダヤの祭日に由来します。ユダヤの天と地に群がる天使の軍隊も、そのままにキリスト教の天使となり、キリスト教信者と一緒にキリスト教の伝道の為に戦うようになりました。実は、これらの天使は多神教時代の名残です。

ユダヤ教の「イスラエル民族は神から選ばれた民族である」という説も、そのままキリスト教化しました。しかし、神が二つの選民をもつことは不可能ですから、それは両者の葛藤やキリスト教の反ユダヤ主義を生みました。キリスト教の教えでは、ユダヤ人はキリストという救い主を信じないため神に離反し、それゆえ紀元前のユダヤ人はすごくいい人でしたが、紀元後のユダヤ人は悪魔その者です。現在もなおキリスト教教会と大勢の信者がこの単純な考え方を絶対真実だと考えています。

初期キリスト教の聖人から現在の原理主義者まで、「ユダヤ人はキリストを殺し、異教のローマ兵士が十字架の下でキリストを受け入れたにもかかわらず、ユダヤ人はキリストを嘲り、ユダヤ人は昔キリストを暗殺したように、今もキリスト教の信者を殺そうとしている」と説教します。

コンスタンチヌス大帝の息子は、ユダヤ人男性とキリスト教女性の結婚に死刑を宣告しました。さらに、404年以降ユダヤ人が兵士や公務員になることも禁じら、この禁令は啓蒙時代まで続きました。また、20世紀のヒトラーのドイツ、ファシストのイタリア、カトリックの聖職ファシストのクロアチアやスペインでは再びこの禁令が法律化されました。

 (ホルガー ・H・ハウプト:ある在日ドイツ人の宗教史観)



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