時事評論

黒船来航 現代も何も変わっていない

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 黒船来航


平和ボケの日本人は、黒船来航のこの時代と何も変わっていない。

黒船が、戦闘機を満載した空母ミシシッピ、カールビンソンに代わっただけではないか。

軍事力のない國は、時代を問わず、赤子の首をひねるように侵略され、植民地となる運命にある。

人道、徳義、善悪、話し合い、は表向きの建前論で、背後には核兵器をちらつかせている。

政治家も企業も、ヤクザな暴力団と同じで、武力・経済力で威嚇し、狭い島国で「蝸牛角上の争い」を繰り返しているだけだ。

この隙を狙っているのは、大国の米国、中国だけではないようだ。




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嘉永6年(1853年)に、代将マシュー・ペリーが率いるアメリカ合衆国海軍東インド艦隊の蒸気船2隻を含む艦船4隻が、日本に来航した事件。当初久里浜に来航したが、当時久里浜の港は砂浜で黒船が接岸できなかったことから、幕府は江戸湾浦賀(神奈川県横須賀市浦賀)に誘導した。アメリカ合衆国大統領国書が幕府に渡され、翌年の日米和親条約締結に至った。日本では主に、この事件から明治維新までを「幕末」と呼んでいる。


 アメリカのアジア市場への進出

産業革命を迎えた西ヨーロッパ各国は、大量生産された工業品の輸出拡大の必要性から、インドを中心に東南アジアと中国大陸の清への市場拡大を急いでいたが、後にそれは熾烈な植民地獲得競争となる。市場拡大競争にはイギリス優勢のもとフランスなどが先んじており、インドや東南アジアに拠点を持たないアメリカ合衆国は出遅れていた。

その後アメリカは1833年にシャムとマスカットとの条約を締結することにようやく成功した。1835年には日本と清との条約締結のために特使を派遣することとし、このときに東インド艦隊が設立されている。この試みは成功しなかったが、アヘン戦争後の1842年に清との間に望厦条約を締結し、中国市場へ進出することとなる。この条約の批准のために東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが清に派遣されるが、ビドルは日本との条約交渉の任務もおびていた。このため、1846年に浦賀に来航するが、条約を結ぶことはできなかった。


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 捕鯨船の物資補給を目的とした寄港地の確保

産業革命によって欧米の工場やオフィスは夜遅くまで稼動するようになり、その潤滑油やランプの灯火として、主にマッコウクジラの鯨油が使用されていた。この需要を満たすため、欧米の国々は日本沿岸を含み世界中の海で捕鯨を盛んに行なっていた。日本近海ではジャパン・グラウンドと呼ばれる伊豆諸島・小笠原諸島付近、カムチャツカ・グラウンドと呼ばれるカムチャツカ半島東方が好漁場として知られており、米国東海岸を基地とする捕鯨船は1年以上の航海を行うのが普通であった。当時の捕鯨船は船上で鯨油の抽出を行っていたため、大量の薪・水が必要であり、長期航海用の食料も含め、太平洋での補給拠点が求められていたが、アメリカも例外ではなかった。

加えて難破船の問題もあった。漂流民の保護は当時のアメリカ海軍の任務の一つであり、1849年にはジェームス・グリンが難破した米国捕鯨船乗組員を受け取るために長崎に来航している。その費用の観点からも、太平洋に面する日本と条約を締結することは有利であった。


 ペリーの計画

ペリーは日本開国任務が与えられる1年以上前の1851年1月、日本遠征の独自の基本計画を海軍長官ウィリアム・アレクサンダー・グラハムに提出していた[9]。そこで彼は、以下のように述べている。

任務成功のためには4隻の軍艦が必要で、その内3隻は大型の蒸気軍艦であること。
日本人は書物で蒸気船を知っているかもしれないが、目で見ることで近代国家の軍事力を認識できるだろう。
中国人に対したのと同様に、日本人に対しても「恐怖に訴える方が、友好に訴えるより多くの利点があるだろう」
オランダが妨害することが想定されるため、長崎での交渉は避けるべき。

日本開国任務が与えられると、計画はさらに大掛かりになり、東インド艦隊所属の「サスケハナ」、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(USS Plymouth 同)に加え、本国艦隊の蒸気艦4隻、帆走戦列艦1隻、帆走スループ2隻、帆走補給艦3隻からなる合計13隻の大艦隊の編成を要求した。

しかし、予定した本国艦隊の蒸気軍艦4隻の内、使用できるのは「ミシシッピ」のみであった。さらに戦列艦は費用がかかりすぎるため除外され、代わりに西インドから帰国したばかりの蒸気フリゲート「ポーハタン」が加わることとなった。


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 小笠原探検

ペリーは艦隊の一部を那覇に駐屯させ、自らは6月9日に出航、6月14日から6月18日にかけて、まだ領有のはっきりしない小笠原諸島を探検した。このとき、ペリーは小笠原の領有を宣言したが、即座にイギリスから抗議を受け、ロシア船も抗議のために小笠原近海へ南下したため、宣言はうやむやになった。後に日本は林子平著『三国通覧図説』の記述を根拠として領有を主張し、水野忠徳を派遣して八丈島住民などを積極的に移住させることで、イギリスやロシア、アメリカなどの当時の列強諸国に領有権を認めさせることになる。

ペリーは6月23日に一度琉球へ帰還し、再び艦隊の一部を残したまま、7月2日に大統領からの親書を手に3隻を率いて日本へ出航した。


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 浦賀来航

左よりヘンリー・アダムス副使(艦長)、ペリー水師提督、アナン軍使(司令官)
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)に浦賀沖に午後5時に現れ、停泊した。日本人が初めて見た艦は、それまで訪れていたロシア海軍やイギリス海軍の帆船とは違うものであった。黒塗りの船体の外輪船は、帆以外に外輪と蒸気機関でも航行し、帆船を1艦ずつ曳航しながら煙突からはもうもうと煙を上げていた。その様子から、日本人は「黒船」と呼んだ。

浦賀沖に投錨した艦隊は旗艦「サスケハナ」(蒸気外輪フリゲート)、「ミシシッピ」(同)、「サラトガ」(帆走スループ)、「プリマス」(USS Plymouth 同)の4隻からなっていた。大砲は計73門あり、急な日本側からの襲撃を恐れ臨戦態勢をとりながら、上陸に備えて勝手に江戸湾の測量などを行い始めた。さらに、アメリカ独立記念日の祝砲や、号令や合図を目的として、湾内で数十発の空砲を発射した。この件は事前に日本側に通告があったため、町民にその旨のお触れも出てはいたのだが、最初の砲撃によって江戸は大混乱となったが、やがて空砲だとわかると、町民は砲撃音が響くたびに、花火の感覚で喜んだと伝えられる。

浦賀は見物人でいっぱいになり、勝手に小船で近くまで繰り出し、上船して接触を試みるものもあったが、幕府から武士や町人に対して、「十分に警戒するよう」にとのお触れが出ると、実弾砲撃の噂とともに、次第に不安が広がるようになった。このときの様子をして「泰平の眠りを覚ます上喜撰たつた四杯で夜も眠れず」という狂歌が詠まれた。上喜撰とは緑茶の銘柄である「喜撰」の上物という意味であり、「上喜撰の茶を四杯飲んだだけだが(カフェインの作用により)夜眠れなくなる」という表向きの意味と、「わずか四杯(ときに船を1杯、2杯とも数える)の異国からの蒸気船(上喜撰)のために国内が騒乱し夜も眠れないでいる」という意味をかけて揶揄している。

7月9日(嘉永6年6月4日)幕府は、船上のペリーに対してまず浦賀奉行所与力の中島三郎助を派遣し、ペリーの渡航が将軍にアメリカ合衆国大統領親書を渡すことが目的であることを把握したが、ペリー側は幕府側の与力の階級が低過ぎるとして親書を預けることを拒否した。続いて7月10日(嘉永6年6月5日)浦賀奉行所与力香山栄左衛門が浦賀奉行と称して訪ねた。ピュカナン・アダムス両艦長およびコンティーと会見した。が対応は変わらず、親書は最高位の役人にしか渡さないとはねつけられた。香山は上司と相談するために4日の猶予をくれるように頼んだが、ペリーは3日なら待とうと答え、さらに「親書を受け取れるような高い身分の役人を派遣しなければ、江戸湾を北上して、兵を率いて上陸し、将軍に直接手渡しすることになる」と脅しをかけた。



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