教育評論

こころとからだ 精神と肉体

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 こころとからだ 精神と肉体


 柔和で神々しい顔と美しい心とからだは一体である

 健全なる肉体に健全なる精神が宿るのではない

 健全なる精神が健全なる肉体を育むのでもない

 精神と肉体は不可分であり、健全不健全はない(不垢不浄なり)


 二元論的視点(解釈)は、洞察力のない狭量・短絡なニンゲンがそれから先の思考が停止して、拙速に対比できる手っ取り早い二項目を抽出する技法(白黒・善悪・精神と肉体など)だから当てにはならない、とまず初めに断っておく。




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 昨今は「こころの教育」の必要性がさかんに説かれている。確かにそう言いたくなるご時世である。子どもたちの「こころ」が荒れている。いじめ、不登校、自殺、暴力傷害、殺人、援助交際、等々。しかし「こころとからだの教育」なら合点がいくが、私には、バランスを欠いた不自然な表現に思える。

 「こころの教育」を説く背景には、人間は「こころ」であるという哲学がある。「こころ」と書けば、なんだか東洋的、日本的な感じがする。しかし「こころ」を「精神」と書き直してみればわかるのだが、それは西欧近代哲学の祖デカルトの言葉そのままなのである。いわく、人間は精神である。そしてそれは人間を自然の中で特権化する思想でもある。

 では、人とは何か。心身である。不可分の心身である。こころでもからだでもない。記憶や意識こそその人であるのと同程度に、身体の大きさや重さ、それからその生涯の間に刻まれた傷もその人そのものである。

 戦後を含めて近代日本思想史の一つのテーマは、西欧近代の心身二元論の克服であった。そのことから言えば、心身二元論を前提とする生体間臓器移植の受容は、日本の「思想」の敗北を意味する。一世を風靡したマルクス主義パラダイムが「沈黙」して久しいが、同様に「近代克服論者」も沈黙したままだ。

キリスト教世界では、異教徒(モノ)の殺戮は例外として、信者間の生殺与奪権は神の権限で、人間にはない、という盟約があるが、刑罰はそもそも、ムチ打ちのように身体に下されるべきものであった。その極みが死刑であった。しかし、いつの間にかそれは精神に対する刑罰に取ってかわられた。「精神」を閉じ込めることが刑罰なのだ。これまた肉体を分離する「こころ」の再教育である。

 しかし「こころ」とはそんなに信用がおけるものであろうか。少なくとも私はそうは思わない。幼いころからの身体の傷こそが私の「罪と罰」である。身体の「記憶」ほど正直で明白なものはない。それに比べて「こころ」の方はどうだろう。昨日の反省も翌日にはたいてい反古であろう。良心の呵責(こころの痛み)は少々残っても、「まあいいか」で影も形も残らなくなる。

 生命とは精神なのか身体なのか。これは人間だけに許された問いである。動物保護や環境保全等、生態系の維持についての議論がさかんだが、そこでは「精神」など問題にならない。もっぱら「身体」的側面だけが問題である。そして自然に人間の手を加えないようにしよう、というのが基本主張である。自然は生まれるべくして生まれ、死ぬべくして死んでいくのが善しとされる。その自然の一部である人間だけが、死ぬべくして死ねない生命なのである。

 現代の人間の死の大半は、不自然死である。病院で手術や投薬などの加療、延命治療されたあげくの死である。なぜ人間だけが自然な死を迎えられないのか。それは、人間は他の生き物と違う「こころ」であるという驕り偏った思想(あるいは「宗教」)を獲得したためである。

 身体はモノではない。「自分」が隅々まで満ちたものである。だからこそ、たとえ手足の末端でも傷つければ「自分」が痛いのである。日本人は、モノにも「こころ」と「からだ」を認めてきた。モノにも人間同様の「霊」があると信じてきた。そうした宇宙観、切り離された部分ではない全体像としてとらえ、「こころ」と「からだ」は、ばらばらのものではなく一つのものであること、また人もモノも大きな自然の一部であること、そういう「思想」を取り戻すことが「こころの教育」のひとつである。



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 言い換えれば、「こころの教育」とは「からだの教育」でもある。

 親の背中(からだ)を見て育つ「こころの教育」とはうらはらの「精神論」ばかりを説くやからが大手を振ってまかり通るこの国。
 「美しい」という形容詞を連発しすぎて挫折する「国づくり」。
 国家や女性の「品格」を論じ、品格本がもてはやされる国に品格などすでにない。最低限の企業倫理、職業倫理を品格などとは呼べるはずもない。
 むかついて、すぐ切れる子どもがいなくなる、と錯覚する国、心なき帳面消しの「食育、家庭教育、ゆとり教育」のとおりではないか。

 「こころの教育」とは、「社会」を越えた無為自然の「自然」の中に、人間存在をもう一度位置づけることである。それは他の生物と共通な自然としての「からだ」の中に「こころ」をもった生き物が、人間に他ならないことを知ることである。

 私は「こころの教育」のバイアス(偏り)を指摘しただけである。「こころ」さえ教育すればよいという考え方は、「こころ」があたかもそれだけで取り出せるモノとして扱うことになり、畢竟、人間の不自然な生き方を助長することになるからである。

教育とは、躾であり、こころとからだの両方を半強制的に矯正することである。

 教育は、やはり、「鬼面仏手」の方がよい。




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