教育評論

フランスの子育ては「すずめの学校」

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親やリーダーの言いつけ通り、規律正しく集団の秩序を守る子すずめたち。弱小なすずめにとって、集団からの離脱やルール違反は、鷲や鷹の猛禽類に襲われる=死を意味する。





 こ ど も の 躾


「すずめの学校」と「めだかの学校」が、よくこどもの躾の引きあいに出される。

歌詞を思い出すと、「すずめの学校」では、すずめの学校の先生はム~チを振り振りチーパッパ。
「めだかの学校」では、だ~れが生徒か先生か~みんなでお遊戯しているよ。

現代は、少子化とこどもの権利・虐待のせいか、過保護に扱われ「めだかの学校」の特色が強い。
モンスターペアレンツやモンスターチルドレンが、この傾向を増幅させている。

ところが、いったん社会に出ると、こどもは防護柵を取り払われ厳しい現実にさらされる。
いや、保育園からすでにはじまっていると言ってもいいのかもしれない。

こどもを死に追いやるような、いじめ問題や行き過ぎた体罰・暴行が国を揺るがす社会問題となっている。




 教育は強制である


 こんにち、食事のさいに小笠原流の作法をかたく遵守するように子どもをしつけようとする人間がいれば、それはあきらかに大人の「無理じい」である。そんな「しつけ」は、大人が自分の勝手な都合を子どもに押しつけるだけのものであり、人間(子ども)の自由を束縛するものだ、といわれても仕方がない。最初に焼き物にハシをつけて、次にご飯を一口…などという作法に、なにゆえ子どもを従わせねばならないのか。そんなことは子どもの自由であろう。メシなど好きなように食えばいいのである。

 だが、しち面倒臭いこうしたハシづかいの作法が人間の自由を束縛するものだとしても、だからといって、手づかみでものを食うのが人間の自由だということにはならない。何をどんなふうに食うにしろ、最低限ハシを使ってモノを食う、というのが人間としての品位というものであろう。そしてそのためには、子どものうちにハシが一人前に使えるように訓練を課さねばならない。

 子どもがすすんでハシの訓練をするとはかぎらないから、これはときに強制や強要という性格をおびる。だが、それを子どもの自由を侵害し、束縛するものだと言って非難する人間はだれもいまい。むしろ基本的なハシの使い方の訓練という「しつけ」は、自由にモノを食う(しかも、人間としての品位を保持しつつ。)ために、不可欠のものである。

 クルマを運転するには運転免許がいる。免許をもたない者にはクルマの運転が禁じられているし、また、免許証を持っている人間でも、つねに交通規則を遵守しなければならない。だが、免許をもたない人間にクルマの運転を禁じたり、また、ドライバーに運転中は交通法規をまもり、信号や標識、道路表示の指示にしたがうよう要求することを、人間の自由にたいする侵害である、と考える人間はいないだろう。交通法規に従った運転をしたからといって、行きたいと思った場所へ自由に行けなくなるわけではない。

 交通ルールを守った運転がドライバーの運転の自由を侵害し、束縛するわけではないのである。(むしろ、逆にそうしたマナーを守るからこそ、運転者には移動の自由が保証されるのである。) 運転免許証は、クルマの運転が支障なくおこなえる人間だけに認められる。そのためには訓練を積まねばならない。忍耐と努力をかさねて訓練を積んだ者だけが、運転の自由を手に入れる。(「しつけ」によって)マナーを身につけた者だけが、必然的な拘束を甘受する者だけが、自由をもつのである。(そして、そうしたマナーをしつけるのが、自動車教習所という「学校」のしごとである。)自由は、習練のはてにしか得られない。

 このことは、運転の技術もルールも知らない人間が道路に出て、「勝手気ままに」クルマを動かそうとすれば一体どういう結果になるか、を考えてみれば容易にわかる。オレがしたいのだから勝手にやらせろ、それをさせないのは人間の自由の抑圧だ、といって暴走運転をする人間は、無謀でわがままなだけであって、けっして自由なのではない。いまやりたいことができないといってダダをこねるのは、幼児だけである。そうしたわがままな要求をすべてかなえてやることが、幼児の「人間としての自由」を尊重することと同じでないことは、いまさら言うまでもあるまい。

 だから、子どもの「人間としての自由」を真に尊重すれば、しつけや教育などできない、というのは、逆立ちした理屈にすぎない。そうした自由を本当に考えるならば、むしろ逆に子どもを一生懸命に訓練し、しつけるべきなのである。技術やルールやマナーを、自らの行為を律する規範として内面化させた人間にしか、自由は存在しないからである。

 ピアノを思いのまま、自由に弾きこなすためには、習練を積まねばならない。幼児の気まぐれな、ただの「イタズラ弾き」こそが完全に自由な演奏であり、そこにこそ心情のもっとも直接的な表出と吐露とがある、などとだれが真顔で言うだろうか。自己の心情をこめて「自由に」ピアノが弾けるためには、辛抱強い習練が必要なのである。(それは、画家が自由に絵筆が駆使できるようになるために、無数に模写やデッサンをくりかえすのと同じだ。)自由は、習練のはてにしか得られないのだ。


 教育がこうした習練を子どもに課す作業だとすれば、それが「きらわれる」のはある意味で当然である。だがそれは、子どもの「人間としての自由」を抑圧するものではない。たしかにそれは「無理じい」という性格を色濃くもっている。訓練やしつけというものは、基本的に辛く厳しいものである。子どもがいつも喜んでそれに従うとはかぎらない。それにクルマの運転やピアノの稽古ならば、嫌になればやめてしまうことができるが、ハシの使い方についてはそうはゆかない。(同じことは人間生活のルールやマナー全般について言える。)子どもが嫌がっても、それを身につけて貰わねば困るのである。


 したがって教育というものは、必然的に、子どもに有無をいわせず課し、強いる性格のものにならざるを得ない。(子どもがいつもハシの正しい持ち方や食事の行儀作法に、自分からすすんでしたがう、とはかぎらないからだ。)それはときに強制や強要という手段に訴える。いかにやり方をソフトなものに変えても、根底において教育は「無理じい」という性格をけっして失わないのである。その意味で、強制のない自由な教育などというものは、絵に描いた餅にすぎない。いや、それは自己矛盾・自己放棄に陥らざるを得ないのである。

 しかし、そうした「無理じい」は不可避のものである。その「無理じい」こそが、逆説的にも子どもの真の自由を実現するための前提をつくるのである。だから、子どもの自由のために教育という強制が容認されうるのである。

 自由のために強制力を行使する!この矛盾した言い方は、当然のことわれわれを混乱に陥れる。だが、幼児が一人前にメシを食えるようにハシの使い方をしつけることと、小笠原流の食事作法を教え込んで子どもを窮屈にすることの区別をキチンとつけないと、子どもが基本的なハシの使い方すらできずに、ダラシなく半分手づかみでモノを食うような事態になってしまう。ハシがちゃんと使えなければ、そもそも自由に食べることなどできるはずがないのに、である。

 今日大人たちは、子どもの自由を束縛し侵害するのでは?という恐れのために、確信をもって子どもに習練を課すことができなくなっている。(そしてそれは、自分たちが必要以上に窮屈な思いを教育によって強いられてきたからだ。自分はともかく子どもたちにはそういう苦い思いをくりかえさせたくない、という動機がその根底にはあるだろう。)

 その結果、人間生活の真の自由の基盤を掘り崩すという愚を犯しているのである。子どもたちは人間生活のマナーやルールを規律として内面化させることなく、むき出しのエゴをおのれの「自由」と勘違いして声高に言い立てることになるが、自由を標榜する今日の教育は、他ならぬ「自由」を盾にとって増長するそのエゴを阻止することができない。教育自身がエゴと自由とを取り違えているのであり、誤った自由の観念のために、自錠自縛におちいっているからである。


 このようにして自由とエゴ、自由と秩序、権利と義務の違いを教えられないまま育ったこどもたちは、社会に出てもまともな人生を送ることができないまま、不幸や逆境を乗り越えることができずに転落の一途をたどることになる。

 こどもを死に追いやる暴行や体罰は絶対に許されない。しかしながら、マナーやルールを違反したときに、親や教師から叱りや罰を受けなかったこどもは不幸な人生を歩まなければならない宿命を背負うのである。



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