忘れえぬ光景

キッチュにどっぷり浸かったニンゲン社会

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平戸サムソンホテル 7




 キッチュとは何か?


まず、イシコロのモノローグを最初に述べておく。

私たちの生が一回性であるかぎり、どの年代も初体験、未知との遭遇であり、生きている限り、我々は常に構造的な無知(未知)のなかにいる、といってよい。ミラン・クンデラの作品『無知』は愚かしさを嗤(わら)う罵言ではなく、これまで何度も似たような体験をしてきたのに、また同じことを繰り返している人間世界の危機意識のない「知の限界」の愚かしさと滑稽さを表現したのであろう。

無知の知(クンデラ)、無意識の識(フロイト)、無用の用(老子)にも示されるように、我らはいつも無と存在の領域を振り子のような正確さではなく、理性と感情にまかせてただ取るべき手段もなく往復する原初的生物の、神聖で愚かな行動を『無知』と表現したのであろう。

この中では、人間が主張する生命の重さという単位は存在しない。気体のように、雲のように風に吹かれて飄々とあてもなく漂う羽毛の軽さに似ている。
人間の存在とは何か、という身勝手で人間独自の独善的発想は拒絶される。
無常観、はかなさ、かそけさ、虚無感、無力感という日本人好みの言語表現では説明できない無知の世界である。

膨大な過去の文化的遺産・知識・智慧で対処しようとしてもどうにもならない人類の愚かさと無知を、ミラン・クンデラは『存在の耐えられない軽さ』と命名したのである。



 「存在の耐えられない軽さ」とは

 ニーチェの永劫回帰の思想で、人生は何度も繰り返されるから取るに足らないほど軽いのか、それともたった一度きりしかないからとても重く重要なのか。軽さと重さどちらが肯定的でどちらが否定的なのかというとこから始まる。

存在は絶対的に美しく善であり、世の中は下品な糞など存在しないかのように振る舞う(見て見ぬふりをする)。こんな美的な理想のことをキッチュ(kitsch独:まがいもの、俗悪なもの)と言い、キッチュとキッチュでないもののは隣り合っていて紙一重だ。わかりやすく日本語で言えば、ミーハーのすることではないか、とあざ笑いながら、内心ではミーハーのしていることを妬み羨んでいる。そこを人間は運命に翻弄されるように行ったり来たりするだけで、傍から見ると滑稽に見える。この人生の滑稽さが存在の耐えられない軽さの「軽さ」なのだ。

上手く説明できないけど、何度か本を読んでもらえれば何となく分かると思う。
クンデラは知識が豊富で内容も哲学的・思想的でさることながら、書き方が本当にうまい!
作者自身のエッセー的考察と小説(物語)が絡み合いながら展開していく。エッセー的考察があり、それに基づく小説の登場人物の行動、また逆に登場人物の行動から考察するなどだ。

そういえば当たり前のようにミラン・クンデラと言っているが、ここで簡単に彼について書いておくと、クンデラは1929年チェコ生まれで、今は亡命先のフランスで活動している作家である。代表作はいくつかあるが、『存在の耐えられない軽さ』の作者だと言ったらへぇと思う人もいるだろう(てか、私がそうだった)。

さて、のっけからキッチュキッチュとやや興奮気味の私だが、クンデラがどうしてキッチュを問題としているのかを一言で言うなら、彼はそれを「小説の敵」と捉えているからである。この小説の敵には他に2つあり、1つは「アジェラスト(笑わない者、ユーモアのセンスのない者)」、もう1つは「紋切り型の考えの非-思考」だと言う。加えてこの3つは、同じ根をもつ1つの敵だとも述べている。この文脈におけるキッチュの定義を彼自身の言葉で見てみよう、ということで、この本の作者の赤塚氏は2つの引用文を載せている。

「キッチュという言葉は、どんなことをしてでも、大多数の人びとに気に入ってもらいたいと望む者の態度をあらわしています。気に入ってもらうためには、あらゆる人びとが理解したいと望んでいることを確認し、紋切り型の考えに仕えなければなりません。キッチュとは、紋切り型の考えの愚かしさを美しさと情緒の言葉に翻訳することなのです。キッチュは、私たち自身にたいする感動の涙を、私たちが考えたり感じたりする平凡なことにたいする涙を私たちに流させます。

どうしても気に入られ、そうすることによって大多数の人びとの関心を得なければならないという必要を考えてみれば、マス・メディアの美学はキッチュの美学にならざるをえません。マス・メディアが私たちの生活のすべてを包囲し、そこに浸透するにつれて、キッチュは私たちの美学にそして私たちの日常の道徳になっていきます。最近まで、モダニズムは紋切り型の考えとキッチュにたいする非順応的抵抗を意味していました。今日では、モダニティはマス・メディアの途方もない活力と一体になっていますし、モダンであるということは、時代に乗り遅れないようにするためのすさまじい努力、このうえなく型どおりであるよりもさらに型どおりであろうとするためのすさまじい努力を意味しています。モダニティはキッチュというドレスを身にまとったのです。」



赤塚氏は言う。「問題のキッチュについては、ひとまずここで、クンデラが『どんなことをしてでも、大多数の人びとに気に入ってもらいたいと望む者の態度』とみなしていることを記憶に置くことにしよう」。そしてキッチュについての本題に入る前に、非常に丁寧な説明を加えている。つまり、クンデラ作品を見ていくには、まずこの広大な意味内容を含むキッチュという概念を理解しなければならず、しかもクンデラにおいてはいわゆるキッチュの美的側面ではなく倫理的側面のほうがより重視されているため、彼のキッチュの用語法をも理解しなければならない、というのだ。

赤塚氏は始めにキッチュの一般的な理解を、辞書における定義として表している。つまり「通俗なもの、俗悪なもの」というやつだ。しかしクンデラにおいてはキッチュは「もの」を指すのではなく(前のページでも書いたように)通俗な「こと」という人間の態度をいうのだ。次に赤塚氏はその「キッチュという態度」について述べていく。

「(クンデラのいう)キッチュとは何か」という話をする際に赤塚氏は多くの本を援用しているが、基本的な部分はアブラアム・モル『キッチュの心理学』とマティ・カリネスク『モダンの五つの顔-----モダン・アヴァンギャルド・デカダンス・キッチュ・ポストモダン』に依っているように思われる。赤塚氏は次のようなモルの言葉を引用している。

キッチュとは、まず何より、人が物との間に結ぶ関係のひとつのタイプである。ひとつの具体的な物についてそれをキッチュであると言ったり、あるいは一つの様式をキッチュであると言ったりするよりは、人間の存在の仕方そのものについて、一つの型(タイプ)をキッチュと言った方が適当なのである。

しばらく赤塚氏はモルの本に従って、キッチュと消費社会について話を進めていく。キッチュ(という言葉)が生まれたのは19世紀中頃で、そのとき興隆してきた市民社会において発生したのだとモルは言う。市民社会はその後大衆社会となり消費社会へとつながってゆく。赤塚氏はモルの言葉を次のように要約している。
もし消費社会を、そこに属する同時代の人びとが、消費にともなう「物語」を好んで共有しようとする社会というふうに理解してよいなら、キッチュは何よりもその「物語」に結びついた現象とみなしてよいだろう。

消費にともなう物語、というのは、分りやすく言えばステイタスである。物自体ではなく、その物に附随する何かしらの意味を求める。「俺は金持ってんぞー」と、その物が彼の代弁をするがゆえに、彼はその物を買うのである(なんかいきなり身近な話になってきた)。更に言えば、彼がその物を持っているからといって必ずしも金持ちであるとは限らず、大抵はその逆なのだ(後述するがここにキッチュが「自己欺瞞」と言われる側面がある)。彼同様キッチュにどっぷり浸かっている人間にとって彼は(自分より)金持ちに見えるかもしれないが、キッチュを見抜く人間にしてみれば彼は甚だしく滑稽である。しかしそのような人間は少数だし、言ってしまえばキッチュから逃れられている人間などいないのである。

キッチュには美的側面と倫理的側面があると前述したが、これはもちろんまったく別個な話としてあるわけではない。「芸術とキッチュ」ということでいくつかモルの文章を見てみよう。
独創性と陳腐とを一定の割合において共に内に含んでいるのが芸術であるのに対し、キッチュは、中庸を求めて、独創と陳腐の間を揺れ動く動きとして現れてくる。

名もない人びとの集団によって楽しみが社会的に受け入れられていく、その動きがキッチュである。この社会集団は、穏健でなまぬるい「悪趣味」の持ち主なのだが、「徳は中庸にある」のだ。そしてキッチュとは、まさにその中庸の徳に他ならないのである。キッチュとは、それ故、そのようなあり方、様態 le mode なのであって、流行 la mode なのではない。

芸術家は、大衆の趣味というものを多かれ少なかれ是認し、これに妥協しようとする。鑑賞する方の側でも、のっぴきならない形で芸術作品にのめりこむよりは、充分な余裕をもって楽しもうとする。無趣味の中にひとかけらの趣味が見いだされ、醜悪さの中に一編の芸術が見出されれば、それで充分なのだ。駅の待合い室の電灯の下には、一枝のやどり木が飾られ、通路には、ふち飾りのついた鏡がおかれ、居間のテレビの上には造花が飾られる。そして、道具箱はヴォージュ産の樅材で作られるのだ。こうして、日常生活をいささかでも心地良くしようとするのである。

それは、日常生活の心地良さに適合してしまった芸術だと言ってもいい。革新的であるという、芸術本来の機能は、そこでは犠牲にされているのである。キッチュとは、ひそやかな悪徳である、やさしく甘い悪徳である。だが、悪徳というものを全く持たずに生きていける人間がどこにいようか。キッチュの持つ圧倒的なエネルギーとその普遍性は、そこに起因しているのである。

言わば心地良さに適合してしまった芸術がキッチュであり、心地良いがゆえに人びとはそれを喜んで受け入れ、したがって商品としてあり得るのである。赤塚氏は次のような引用文に続いてこのように言っている。
ピンクやブルーの淡い色調、規則通りの和音、悩みやつれるヒロイン、あるいは父親らしい父親-----人はこういったもの全ての中にある心地良さを感じる。そして、これらの心地良いもの全てに共通する要素が、キッチュの本質なのである。心地良さとは、キッチュの最も重要な情緒である。(モル)

この種のキッチュの例には、さらに、木陰に横たわる恋人たちや、煙突から煙がたなびく小さな家に暮らすしあわせな家族というイメージ、絵はがきを思い起こさせる自然の風景などもふくめることができるだろう。いずれにしても、これらのものにもとめられているのは「心地よさ」にほかならず、しかもそれは、誰もが手にすることができるもの、誰にとっても到達可能のものとみなされている。つまり、それは「約束された心地よさ」なのだ。さしあたってこの「約束された心地よさ」をもとめる態度、それがキッチュという態度であると理解しておくことにしよう。

ここで赤塚氏は、モルの本からキッチュの現象を構成する五つの主要な要素を抜き出している。説明も含めて全文載せたいところだが、それは別の機会にするとして、ここは箇条書きにとどめる。

   1、成功が保証されていること。
   2、自己肯定。
   3、本質的な価値としての所有物。
   4、心地良さ。
   5、生活の中の儀礼性。

それぞれ簡単に説明すると、1の「成功が保証されている」というのは、その物なり行為なりが世間的に既に良い評価を得ているということと言ってもいいのではないかと思う(ちょっと自信なし)。突拍子もないことはしないし言わない。「中庸の徳」というやつである。2の自己肯定というのは、自己の生活や価値観にどっぷり浸かって、それに対して何の疑いも持たないというおめでたい態度のことである。3については、説明文を見る限り先程のステイタスの話らしい。どんな服を着てどんな車に乗り、家はどこでどのくらいの広さがあるのかということが、その持ち主の価値(?)を現すのだというアタマで揃えられる所有物、ということと思われる。4の心地良さは先に見た。

5の生活の中の儀礼性というのは、いわゆるマナーのことである。食事やお茶、接待をする際の行動様式というものは上流階級のものであったのだが、それをブルジョアジー(市民階級)が模倣し、次にプロレタリアート(労働者階級)が身につけたのだという。ははは、これはつまりプロレタリアのくせにやたらブルジョアぶりたがるという上昇志向(?)の話と思われる。

赤塚氏は次に「心地良さ」を求める態度から「現実逃避」ということに話を移し、以下のようなカリネスクの言葉を示す。
キッチュは、(・・・)現代の日常生活の凡庸さと無意味からの脱出の幻想という-----心理的により重要な--- --機能をもっている。どんな形態また組み合わせにおいても、キッチュとは緊張を緩和する快楽である。

これに関する具体的な例を示そうと思っても私もいまいちピンとこない文章ではあるが、その前に「キッチュはロマン主義のひとつの帰結となっている」とあることを考えるに、これは(モルの言う)キッチュ文学の話と通じる部分があるのではないかと思う。キッチュ文学における現実逃避というのは、つまりハーレクイン文庫の世界である。凡庸な毎日が、突然訪れた恋によってドラマチックなものに変わる。それまで生きているのか死んでいるのかさえわからなかったような女が、1人の男によって自分の魅力を知り、生の意味を知る、といった手合いのもの。いや、私は実際読んだことはないのだが、そのモルがキッチュ文学の例として取り上げている文章というのは、そんな感じなのである。かなり笑える。


クンデラの言葉を借りれば「神が宇宙とその価値の秩序を支配し、善と悪を区別し、ひとつひとつの事物にひとつの意味をあたえていた場所」である。しかし近代以降神はいず、「神の唯一の<真理>は、おびただしい数の相対的真理に解体されて、人間たちはそれら相対的真理を分かちあうことになりました」。これはその通りだと思う。それなのにロマン主義やキッチュは、バカバカしいほど善や美のみをひけらかしやがる、というわけだ。更に言えばそれすらただのポーズなのである。

 (Posted by Seigow Matsuoka & 「ミラン・クンデラと小説」 赤塚若樹 水声社 2000) 




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